沢歩きと地域研究
顧問 野口冬人

年報2わらじ 本文より

わらじの仲間は、昭和32年に発足したのであるから、もう20年を越える歴史を刻んでいるわけだ。
過ぎてみれば早いものである。「山と高原の会」の役員をやっていた私を中心に集まって、毎月、あるいは毎週のように山へ行っていた数人で結成した小グループが、そのころ三人集まれば〈山岳会〉という流行語に反発して、何々山岳会という名称は絶対につけたくない、といったことから、また、同じ山の会を作るなら、会の存在価値ということを考えて、個性のある会にしたいと思い、いろいろと考えた末、溪谷からの山旅にテーマをしぼり、谷歩きにつきものであり、また日本古来の履き物として知られていた、“わらじ”を会のシンボルにしよう、ということから〈わらじの仲間〉という会名が生まれたものであった。
したがって山行は、当初から沢歩き、溪谷歩きということが主体に進められ、はじめは東京近郊の日帰り、あるいは夜行発ちの日帰り、一、二泊程度の山行が主に組まれ、実行されていた。
会員はいずれも若かったとはいえ20歳から25歳っくらいまでのメンバーで、みんな仕事を持っていたので、土、日しか休めないという制約が強く、今日のように自由に何日も休みをとるなどということは、思いもおよばなかったものである。
それでも何とかして山へ行きたかったので、いきおい二日日程のところを夜行日帰りでやろうということで、随分と強行向きの谷歩きなども行ったものであった。
奥多摩、丹沢、秩父、奥秩父、御坂山塊、南アルプス前衛、上越国境、八ヶ岳、中央アルプスなどの山と谷を探り歩き、未知の谷を訪ねては、谷歩きのよろこびを味わったものである。
5万分の1地図を眺めては、谷筋を追い求め、山岳雑誌をめくって古い記録をあさり、わずか3、4行の記事のなかからも、未知の谷のヒントを得て、あまりはっきりとした記録のなかった谷を探ったりしたものである。思いがけなく素晴らしい瀑布の連続などをみいだして、こおどりしてよろこびあったことも数え切れないほどあった。なかには、行けども行けどもゴーロの河原で、ついに1本の滝にも出合うことなく、ゴロタ石の河原歩きのままヤブに突っ込んでしまい、稜線へ突き上げてしまったなどという失敗もあったが、いまにして思えば、それらのことは、すべてが楽しい思い出につながっている。
こうした未知の谷を探る山行が、わらじの仲間の特色とうたわれ、会の個性ともなっていったもので、「個性のある会でなければ、会を作る意義はない。個性的な会でなければ、あってもなくても同じである」と、常に主張していた私の考えは、ある程度は実現へと近づいて行ったようにみえたものであった。

沢歩き、溪谷歩きがメインテーマにすすめられている過程で、浮かび上がってきたのが阿武隈川の源流圏であり、奥那須から南会津の山と谷であった。
那須はいまでこそすっかり開けた山地となっているが、私たちが着目しはじめたころはまだ一般には表那須がちょっと知られていた程度で、そんなには知られていなかった山塊であった。いわんや溪谷筋においては未知を求めるる気持ちの強かった会では、かなり集中的にこれらの山地へ入っていったものである。
奥那須、男鹿山塊、南会津の山々とすすみ、さらに山脈的に不可分の関係にある奥只見から越後、御神楽の山々へと足がのびて、広大な南会津から越後の山と谷が、会山行の主力となって行ったものである。
奥那須へかよいつめて、沢歩きのテーマから地域研究がもう一つの会のテーマに組み込まれるようになって行ったのは、ただ山へ登る、山を歩くという趣味的なものから一歩すすみ、山を研究しようという気持ちが強く表れてきたことが、地域研究というテーマを表に出してきたもので、その間にはさまざまな意見が出て、多くの誤解も生んでいるが、要は、私たちの人生における青春の一時期に、自己の力をぞんぶんにたたき込んだひとときを、山を舞台にして記録しておくことが、のちの社会における生活の根幹に、いつか大きな力となって行くかということを考えたからにほかならないのである。

 


沢歩き20年
関根幸次

年報2わらじ 本文より

日本の初期登山は、径のない尾根よりは猟師や峠越えをした民人たちが開いた、谷筋からの職業的径を利用しての登山であった。特に信仰登山の盛んな山々は、谷筋からの登路が多く見られた。日本古来の信仰登山から発生し、日本特有の登山形式として成長した沢歩きは、ルーツをたどれば、このようなことがいえるのかも知れない。我々の祖先は、信仰登山を目的に谷筋から登路をたどり、悪場を越し、自分の心身に苦しみ、耐えて、神の祭られる山頂で祈願したのであろう。
沢歩き20年余を過ごした日々を思うにあたり、古き人々が山に信仰を求め、精神的な糧を求めて登山していったのに対し、我々は何の為に登山するのであろう。お題目を口ずさみ山頂に向っていった古き人々たちの足跡の“祠”を谷筋で見かけることがある。また知名にも神にまつわる名称が多く、特に山名にいたっては数限りがない。
信仰登山時代が過ぎ、明治、大正にかけての登山は、日本特有の谷からの登山を忘れかけていた。登山そのものも、一般大衆よりブルジュワの大名登山であった。昭和に入って初めて一般大衆化し、スポーツ登山となり、一般愛好家の中に溶けこんでいった。
私の登山は戦後からで、戦前の登山の沢歩きは、書物の記録などで理解するだけである。昭和20年代後半に始めた沢歩きは、交通が不便で、食糧、装備等も品不足であり、満足なものは何ひとつなかった時代である。しかし昭和30年代になり、高度成長の波に乗り、時代と共に登山も用品も変化してきた。
我々登山者は交通の発達に便乗し、目的地へのアプローチを早くし、以前では1、2泊の沢歩きコースでも日帰りにしてしまうほどである。交通、食糧、装備等と経済的にも比較にならないほど恵まれてきている。食糧、装備の軽量化に工夫、研究がなされている。20年の歳月には、日進月歩、目まぐるしいほど変化している。
沢歩き20年の歴史は長かった。常に一つ一つの沢歩きは退屈であっても、満足感があり、日々の生活が充実したものであった。若い仲間と同行するチャンスも多く、沢歩きの装備や技術もアップでき、常に若い者には負けないよう心がけている。昔と変わった沢歩きができるのも若い仲間と同行できるからであろう。沢歩きのあの豪快な魅力は、自然に親しめる人の特権であろう。いつまでも体力の続く限り、沢歩きを生きる糧にしたい。

 

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