沢ある記
金子一郎
年報3わらじ 本文より
入会してからの長い歴史のうち、かぞえきれないほどの経験を持ったが、特に思い出の多いことでも良いから書けとの編集委員からの要望でやっと筆をとる気になった。
那須から南会津そして越後、飯豊と地域を拡大した会であるが、越後や飯豊の沢に入谷してみると沢の良さが那須、南会津のそれと比較にならない位対称的なものてある。人間が成長する過程そのままが会の過程であるようである。谷歩きのテクニックのうち特に南会津に入るころは文献も非常に少なくエクスベデショナル的な要素で入谷したものであるが、特に越後三山周辺の谷々は私どもの記録だけでもかなりが網羅されているのをみると沢歩きをする以前の探究力は那須、南会津を歩いた時の方がよかったように思う。しかし、飯豊に入ると又その谷々の記録も非常に少ないのて以前の山行にもどったようにも思える。
男鹿川遡行と男鹿岳 −河原歩き
昭和36年の時だったと思う。最近現代施行研究所より発行された田村豊章氏著「下り坂の山道」に一部印るされている男鹿岳遭難記の報告事(正式名・男鹿岳遭難捜索仕未記)だけがたよりの男鹿岳登頂であった。当時、野口、日吉両氏などがこの報告書をもっておられ、首きりでそれを読み鬼怒川温泉駅から東武。バスの人となったことが思い出される。たしか6月の頃だった。川におりたったの
は4名(日吉、永瀬、中田、金子)だった。買いたての二尺二寸のキスリングで男鹿川を遡行したが、さすがに悪場はなく河原歩きの一日で終った。夕餉の仕度では日吉氏から包丁の使い方、煮込み方などどなられどなられ一生懸命やらされた。時の料理はわらじ名物ネギマ料理だった。
翌日、沢をつめ稜線につきあげたが、かすかな踏跡のみで二手に分かれて頂上さがしをやったが、私共が最初に頂上をみつけ「あったぞ!!」どなるようにコールをかけ、パートナーと合流した。一休み後大川を下降して出合付近に2泊日の夕餉となった。翌日は板室温泉を経由し姥ガ平から下山したが山と渓谷社発行のガイドブック「那須高原と塩原の山」(第一版)の表紙にその時の写真がのり、非常に思い出深く見つめるこのごろである。沢の遡行というより河原歩きであったが、ひとつの谷歩きの記録として印象づけられる。
三国川 仙ノ滝沢 −食料制限
昭和44年頃の第1回三国川合宿の思い出である。当時は三国川の記録はほとんどなく、わずか栃ノ木沢に入った山口孝氏の記録があるのみで非常に緊張した山行であった。
黒又川の出合にBCを設営。林道を小一時間歩き三国川の遡行にとりかかろうとする頃、南沢(?)に入るパーティーのパートナーが、腹痛を起こし遡行を断念する破目になった。極度の緊張感がそのように変調をきたしたのであろう。
私たち仙ノ滝沢パーティーに、南沢のパーティーの1名を加え、食料についてはもてないのでもたず遡行開始当初から2名分の食料で3名まかなって行動したため、第1日日2名分のインスタソトスパゲティを3名で分けあい、第1日日からの食料制限とはと笑ってすませた。沢はかなり悪い沢であったが、第2日日は、稜稼に出て、越後沢山付近にビバークした。天気の良い日であったが、その晩もあまり十分たべられず、夕方からアマガエルとりをしてビニールの袋に入れ、最悪の場合を考慮してねた。
天気は予想通りくずれ、ガスで方向も不明となり、南沢を、まちがって下降してしまったが、朝からゼリー2、3個の食事にはすっかりまいった記憶がある。捨て縄を使っての下降も鉛筆ほどのカン木にくくりつけては非常に恐ろしいものであった。林道に出た時はホッとした安堵感と疲労ですっかりまいってしまった。林道のところどころには心配したのか仲間の書き置きがあり、元気づけられたが、最後の食料としてのレモン1個も食べる気にもなれなかった。予定を1日遅れ、2名で良いところ3名のパーティーになり今考えるとゾッとすることしきりである。
BCに夜遅く着いた時には皆が心配をしてたき出しをしてこれから捜索に行こうと準備していたところであった。
全く申し訳ない山行をしてしまったものだ。
利根川本流 −沢歩きで水不足
会として第1回の利根川源流の合宿であった。私たちは利根本流パーティと裏越後沢パーティと合流して行動した。
第1日日は越後沢出合。すばらしいテントサイトに緊張する気持も楽になる。釣師の道をたどり沢におりたったが、雪溪の状態が非常に悪く50mも遡行すると雪渓を登り、50mも歩くとまた下りをくり返し、大分時間をロスする。たいした距離もかせげないまま雪渓の上でビバークとなった。雪渓の上にいながら懸垂下降で水をくみにいくあわれなビバークであった。その日は十分偵察をしたがどうしても雪渓の中を泳がなければ進まないことわかり、翌早朝雪渓の中にヘッドランプをつけて入り込んだ。流れのむこうはうっすらと明かるい。最初の30m位はヒザ位まての徒渉で、これは楽だと思って歩きつづける。歩は進むがだんだん深くなってしまった。ついにヘッドランプをつけたまま泳ぎになった。流れは急で対岸のつるつるした岩に登るにはずい分時間がかかったように思えた。やっとの思いで明かるい足場にたった時に続いてくるパートナーに泳げない人間がいることに気付いた。早速ザイルを流し引き寄せて小さな足場に全員そろった時はかれこれ1時間もかかったろう。なんとなく足が震え、寒くてしようがない、一応先を偵察したところずたずたに雪渓が切れていてどうしようもない。大きく高巻いてこの場を越えることにし、急で悪い草付をかなり登ったところでかなり先が見通せた。雪漠はやはりずたずたに切れていてそのまま進んだらたいへんだったなあと皆で話し合った。その時、これ以上遡行を続けたら予定の日数をかなりオーバーするのではないかという案が出され、ずたずたに切れている雪渓を前方に見ながら越後沢の方向にヤブをこいだ。そのうちのどが乾き水を飲もうとしたところ全員の水筒がカラであることに気付いた。まるで悪夢であった。夕食も水がなければダメ、ただ満天の星空をながめながら夜霧を待つのみ、それも期待ほどではない。
翌朝、食べるものはあってものどを通らず、まるて夢遊病者のようてある。10分歩いて20分休む。やっと水の音が開こえ出した。しかしここで早まってはダメだ、もう少しもう少しと我慢しながら下降をつづけ、もうここから下降しても大丈夫と思われるところまで来て下降した。最初に水を見た時は皆一升位飲んだろう。なにも食べていないのに元気百倍であった。
越後沢の沢床でソーメンをたらふく食べ、無惨な2パーティー退散には皆に顔向け出来ないほどであった。沢歩きだからといって水筒に水をつめないのはもってのほかであるとその時痛感した。まだまだ大きな失敗は数えきれないが、ひとつまちがえると命にかかる山行の連続であるが、山歩きの基礎と忍耐力、そして技術を充分鍛えて今後の山行の参考になることを祈る。
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