創立25年記念特集
年報6わらじ 対談より
「わらじの仲間」創立25周年記念として、(1)対談「わらじの仲間」創立から現在へ、(2)写真編、(3)資料編、(4)創刊号の復刻を、を特集しました。「対談」は、創立会員であり、いまも現役である関根幸次氏に、現代表の若林岩雄氏がわらじの仲間の歴史、社会情勢などをお聞きしたものです。また「写真編」は25年を写真で見たもの、「資料編」は25年間の山行等一覧、「創刊号の復刻」は昭和32年5月に発刊された会報です。
対談「わらじの仲間」創立から現在ヘ
ゲスト・関根幸次(創立会員)
ホスト・若林岩雄(現代表)
会創立の事情
若林●お忙しいところどうも。今日は創立会員であります関根さんに、創立当時の様子などを、お伺いしたいんですが、当時の社会はどうだったんですか。
関根●創立は昭和32年なんだけれど、ちょうどナベ底不景気の頃だった。
若林●そういう時期に何で山岳会を創ったんですか。
関根●当時、山岳専門書を発行していた朋文堂が、雑誌『山と高原』を出していたんだ。今はなくなってしまったけどその雑誌を母体にした山と高原の会という愛読者グループがあり、リーダーを野口(冬人)さんがしていた。雑誌に山行計画を発表し、読者で会員になっている人々を対象に申し込みを受けて、野口さんはじめ他のリーダーが連れていった。会員数は不明だった。雑誌『山と高原』の山行計画の中に、「沢歩きシリーズ」山行があり、野口さんが中心に、何人かがいつも集まり、山行をしていた。時には新宿あたりに集まり、山の話に明暮れたりした。こんな時期が2年位あり、その後、野口(現・現代旅行研究所社長)、日吉信実、大久保宏(現・池袋大久保病院長)、関根幸次、石黒芳技、谷口(遠藤)徳子らの熱気あふれる若いメンバーが集った。その頃野口さんは「一つの大きなことをするには、個人の力では駄目だ、総合的グループの力を発揮しなくては、大きなことはできない、例えば、合宿山行や、研究山行にテーマを持つには個人の力では限界があり、チームカを駆使することにより、個人でできないことが可能になる。それには小さくてもいいからまとまった会がなくてはならない。しかもその会には、個人に個性があるように会にも個性(ヵラー)が必要だ」と考えを熱っぽく我々に話しかけてくれた。会づくりも本格的に進み、ムードも盛り上り、野口さんに協力したんだ。だから最初は名前なんか付けなかった。昭和32年の3月頃かな。最初は山賊の仲間とか、溪の仲間とか自称しててね。
若林●正式に「わらじの仲間」って名のり出したのは?
関根●32年の9月だね。最初は「わらぢの仲間」。その当時は「わらじ」と名付けられていた山岳会は、他にも沢山あった。最初会報なんかなくて、記録発表もなく、みんな口伝えだった。この後33年5月(1日付)に会報「わらぢ」(33年7月発行の第3号から「わらじ」)が創刊された。
若林●現在の会の信条なんかもその当時のものですか。
関根●そう、創立当時のものですね。
若林●創立当時はおいくつでした?
関根●僕も野口さんも23、4歳ぐらいだった。
若林●どうして「山と高原の会」に入会されたんですか。
関根●学生の頃は、学校の友達と奥多魔や秩父、北アルプスなんかを歩いていた。学校を卒業して、ちょうど22、3歳の頃、単独行をしながら、雑誌「山と高原」を愛読していて、それで「山と高原の会」に入ったんだ。
若林●「わらじ」創立当時は何人位いたんですか。
関根●野口さん、日吉さん、永瀬さん、谷口さん、石黒さん、大久保さん、結構いたね。13人位だった。
若林●「山と高原の会」から別れてできた組織というのは、他にもあるんですか。
関根●耳にしたことがないから、なかったんじゃないかな。
若林●「山と高原の会」は今でもやっているんですか。
関根●その後、朋文堂は倒産して「山と高原の会」も自然消滅になったようだけど。
若林●当時、山をやるというのはどういう人達なんですか。
関根●その頃、終戦後10年が過ぎて内外共に世の中が安定してきて人々の気持も豊かになっていた。学校山岳部は特権階級的存在で、その裏側に社会人山岳団体があった。しかし、30年代から海外登山が脚光をあびて、特にヒマラヤ、マナスル登頂で、登山ブームが起きた。誰彼となく「山に登ってみょう」という気風があったように思う。中でも20歳台の人々が多かった。
若林●当時の山岳会の状況はどうなんでしょうね。
関根●南極越冬、マナスル登頂とイベントがマスコミを賑わせた。その反面谷川岳一ノ倉の岩登りも盛んで「コップ状岩壁がそこにあるから」と岩壁をめぐる登山の世界があった。学校山岳部を「ブルジョア・アルピニズム」、町の山岳会は「プロレタリア・アルピニズム」と言っていた。戦前から活発に活動していた伝統ある会は、30年代に入り再建されてきたし、井上靖氏が岩陵会の前穂東壁ナイロンザイル切断事件をモデルにした「氷壁」を発表したのも「わらじの仲間」創立の頃だったね。当時のマスコミからも「3人寄れば山岳会」と悪口が言われ、街に山岳会が氾濫していた。戦後の復興と共に活発に山に登り始められたように思う。
当時の沢登り
若林●昔は岩登りをやるには、まず沢登りをやってから、というように岩登りの前段階として沢登りが位置づけられていたように感じたんですけど、当時の沢登りはどうだったんでしょうか。
関根●沢登りを山登りの中で一つのジャンルとして形づくったのはうちの会じゃないかな。沢を専門的にやるという意味でね。その頃どこの会も沢登りはやっていたんだけど、それは山行の一部ということだった。「わらじ」は地域研究を沢登りの対象にしていた異色の存在だったように思うね。
若林●その当時「わらじ」の山行は沢歩きを主体としていたんですか。
関根●そう、普通の尾根歩きもしていたけれど、沢歩きを組織として取入れた。
若林●一般山行の中の沢というんじゃなく、組級の中にはっきり取入れている?
関根●そうだね。先人が渓谷へ関心を持った歴史は長いよね。冠松次郎、田部重治といった先従者達が、渓谷美を知らせてくれた。古い会でも部分的に沢歩きを目指した会は、数多くあった。その中でも、市川学園山岳OB会、憬稜登行会、東電山の会、独標登高会、雪苞沓山の会、大阪わらじの会、京都山の会、山岳同人東京心岳会、直江津雪稜会といった会が異色だった。
若林●こういうグループに自分の地域といぅのはあったんですか。
関根●東電山の会は中央アルプス、市川学園は、南会津、帝釈、憬稜は、奥利根。京都山の会は比良や大峰と皆それぞれ地域を持っていた。
若林●その頃、沢登りは一般的にはどう見られていたんですか。
関根●あまり注目されていなかったんじゃないかなあ。沢登り自体は明治時代からあったけど。登山の一過程として、丹沢やって谷川へ行くというパターンでしょうね。純然たる沢歩きとは言えなかった。
若林●棚登り!
関根●そう、そう。
若林●いまはどうなんでしょうね。
関根●ウーン、やっぱり変わってきているんじゃないかな。僕なんかの若い頃と現在とじゃ、全然違っているよ。
若林●関根さんは沢登りをやりたいから山を始めたんですか、それとも岩登りをしたいからですか。
関根●最初からもう沢登りをやりたかったね。
若林●岩、縦走、ハイキング、沢なんかをいろいろ取入れてバラエティ豊かな山行をする会に比べると、沢だけを目差すというのは、当時として漸新ですね。
開場●だから会の中で岩をやりたい、尾根をやりたいという人は、会から出ていくか、切っていった。野口さんの口ぐせは「一人になってもやっていく」ということだった。その点は徹底していたね。あくまで沢ということで、その点いろいろトラブルはあったけど。
会の動揺とエポック
若林●会が揺れたなんてことはありましたか。
関根●そうだね。遭難事故があった時は、会の分裂騒ぎになった。
若林●何年頃でしたか。
関根●伊藤(佳司)君が、南アルプスの塩見岳で遭難した時だから、39年頃だね。
若林●どういうことだったんですか。
関根●遭難事故が起きて、捜索の協力問題などで伊藤君に親しい人がやめていった。会員40人中10人位やめた。無届山行だったわけね。それに対してリーダークラスが批判的になり、それに対して伊藤君の親しい人が反発した。それでやめていった。「わらじ」の大きな波というのは、この時だったと思う。
若林●会ができてから7年位ですね。
関根●そうだね。こういうのは、他の会でもあると思うな。
若林●53年の湯本(貴之)君のヨーロッパアルプス(ミディ南壁)での遭難の時も、そうですね。表面には出てこないけど、中にはあった。
関根●伊藤君の場合、捜索が長かった。春山合宿や他の山行も、全部つぎこんだからね。
若林●「わらじ」の中でエポックという時期が、いくつかあると思うんですけど、その中でロッククライミングを意識的に始めている時期がありますが、その辺のことを。
関根●ロッククライミングを意識的に始めたのは、丸山(春夫)君がチーフになってからだったと思う。
若林●当時の会報にもいろいろ書かれているけど、具体的な形としては、49年の八ヶ岳冬合宿、50年の北アルプス剱岳春合宿。要するに海外遠征(51年、ペルー・アンデス)をやろうということになってからですね。
関根●丸山君の持論としては、地域研究をやるからには山で沢も岩も冬もやらなくちゃいけない。いままでのように、岩がある所は止そうというのでは、地域研究としておかしいんじゃないか。地域研究を充実させるためには、岩登りもやらなくちゃいけない、というものだった。
若林●沢登りのための宕登りということですね。50年以前から丸山さんは頑張ったけど、定着しなかった?
関根●そう、僕らのは沢歩きであって、沢登りじゃない。そんな厳しい所じゃなかった。だから岩登りをやるというのを、僕らは批判したわけ。でも沢歩きもだんだんハードになってきて、沢登り的志向になってきた。
若林●ちょうどその頃ですよね。渓谷登攣論義があったのは。
関根●そうだね。岩登りに直登クライミンクがあったように、渓谷にも直登クライミングという考えだね。でもこれは日頃からやってきたことだね。別段渓谷派、登肇派に区別することはないと思うな。
若林●ただ、会ではその当時日常的な山行として岩登りは定着していなかったわけですね。
関根●悪場を登るための岩登り技術は要求されてはいたけどね。
地域研究
若林●会が創立されてから、すぐに地域研究が始まっていますけど。
関根●そうだね。会の信条にも出ているように、パイオニアワークを主眼として地域研究をやろうということだが。
若林●たしか33年の創立後初めての夏合宿で、中央アルプスのオンボロ沢に入っていますね。何で中央アルプスヘ行ったんだろうかと思ったんですけどね。
関根●その頃は力量不足でね。それは敗退したんだ。滝を登れなくなり、尾根に逃げちゃった。今度は下降できなくなった。中央アルプスは一回だけだった。地域研究はその頃から始めているんだね。一人じゃできない所を会の力でやろうというように。
若林●剱岳合宿というのもありますが。
関根●丸山君なんかだね。鹿島槍は松井君だった。会の力を試す意味もあった。
若林●現在は飯豊ですけど、その前は越後、その前は那須や男鹿ですね。
関根●そう。33年の夏合宿、34年の冬合宿に中央アルプスに行っている。その後34年夏から42年頃まで、途中伊藤君遭難の捜索をはさんで、那須や男鹿、妙義、会津なんかに行ってるね。その後43年頃から49年頃まで越後、それから飯豊。場所は変わっても、地域研究は「わらじ」の創立当初からの柱なんだ。沢登りを主体にした地域研究は変わらないんじゃないかな。
昔の装備
若林●話は変わりますけど、昔の装備はどうですか。
関根●足は、アプローチでは地下足袋、沢では素足にわらじ、ゼルバンなんかなく、ザイルの不要なやつを切って作った。ブーリンにしてね。女性は二重ブーリンにした。ブーリンを目をつぶって作れるようにと言われた。ピッケルは当麻か門田、アイゼンは八本爪。ザイルも麻ザイルのもの。あと6ミリの麻ロープ。いわゆる補助ザイルだね。服装はワイシャツ。冬も同じだった。
若林●普通のワイシャツですか。
関根●そう。とにかく、金が無かったので、カッターシャツなんか買えなかった。古チョッキを上に着てね。
若林●背広のチョッキですか。
関根●そう。それと尻皮。これは必ず着けた。その当時格好いいスタイルといえば、やはり尻皮を着けたものだ。ザックは帆布のキスリング。うぐいす色のやつね。「わらぢ」はこの色で統一していた。夏合宿のボッカ訓練には、キスリングをかついで沢に入ったんだ。頭には帽子。白い毛糸の手編みのやつに、小さいわらじの飾りを二個つけたもの。創刊号の表紙になっているよ。
若林●食糧なんかどうなんですか。
関根●アルファ米もあったけど米と味噌だ。肉なんかほとんど食べなかった。米は飯盒めし。飯盒で米を炊き、そのまま持っていってそっくり上だけ捨てる。これで2日間位もった。家で炊いても日帰りぐらいの山行は充分もった。とにかく装備は単純だな。
若林●現在と比べると装備に対する考えも大きく違いますね。いまだとどんどん分化していって、一つの動作に一つの道具が必要になってきている感じですけど。
関根●カラビナなんかも鉄製だしね。持っていっても使いこなせなかった。靴なんかはナーゲル。もっとも靴を持っている人は少ない時代だった。今のように腰に何もつけてなかったし、持っていかなかった。それで結構やっていた。
若林●その頃、地下足袋にわらじをはくというのは少なかったんですか。
関根●少なかったね。素足にわらじか、足袋にわらじ。女性は足袋をはいていた。わらじは丹沢の源頭なんかで拾ってきた。
若林●火源はどうですか。
関根●国産石油コンロと焚火。これだけは現在のものと変わらないね。会装備でね。
若林●テントなんかどうですか。
関根●最初、冬でも夏テンを使っていた。化繊なんかまだ無いから、布の重たいやつね。ツエルトは今の4、5人用の重さがあった。
若林●断熱材は何を使っていたんですか。
関根●炭俵だね。これを巻いてザックにつけて運んだ。
若林●いつごろまで使っていたんですか。
関根●34年の木曽駒ヶ岳には、全員が持っていった。大体40年頃の越後までだな。その後にエアマットが出たんだよ。
若林●いまのものに比べると保温はどうですか。
関根●保温は最高だ。ただかさばる。
若林●下山する時は、燃やしちゃう?
関根●そう、燃やしてくる。
若林●山の道具店はどうですか。
関根●奥山(章)さんのやっていた梓とか、山幸、みなみ、片桐とかがあった。
若林●石井(ICI)はどうでした。
関根●石井はまだ小さかった。現在の新大久保のスキーショップのある所。間口が一間半ぐらいだった。それから山幸。登攀用具は奥山さんの店が一番多かったけど、見るだけで無縁に近かった。
沢登りの今後
若林●沢登りの今後はどうなんでしょうかね。装備とか思潮とかを考えあわせると。
関根●より一層の充実した楽しい沢登りができるんじゃないかね。装備も変わるし、登り方も高度に変わっていくだろうと思う。たとえば今後恐らくボルダリングの影響も出てくるし、より忠実に水線を辿るようになる。以前、渓谷登攀というのがあったが、今後はすべてひっくるめていくように変わるんじゃないかな。
若林●僕の入会する前までは、沢屋は沢屋ということで、岩屋と区別してやっていたと思うんです。対象の違いが方法の違いにもなっていた。それで岩があれば避けて通過する。沢は岩と違うんだ、という考えがあった。僕が入った頃から、沢登りを楽しむという意味で岩も積極的にやり始めてきた。岩登りでも岩屋には負けない、という具合にね。一ノ倉沢に行っても岩屋に劣っているところはそれほどないと思う訳です。またそれだけの力をつけて沢をやればいい訳です。会の中で岩を集中してやっている人は、せっかく山を始めたんだから有名な所は一回登ってみたいとか、トレーニングとか、自分は6級を登れるかな、といういわば自分の実力を他と比較するという意味で試験制度みたいに捉えている。その上で再び沢に戻ってみると今までの沢が新鮮に見えてくる、というのがあるんじゃないかなあ。しかし問題もあるんですね。現在のボルダリングだと上腕を主に鍛えて下半身は余り鍛えない。そうならざるをえない。ますますより局所的、局部的になっていく。それに何もピークを踏む必要はないという考え。うちの会では下から上までつめ上げなくちゃ面白くない。変化があればそれに柔軟に対応していく。いわばマルチ的な訳。体力、知力、技術をフル回転させないとダメだと思うんですね。体力を落すということで、記録を伸ばすというのはすぐ壁に突当るんじゃないでしょうかね。それが自分達の足をすくうことになってしまう。
開場●そうね。昔は沢歩きだったけど、次第に変わってきた。昔は滝があれば高巻く、釜があれば巻く。これでよかったんだなあ。これが次第に考え方も対応も変わってきた。道具の進歩もあるけど、考え方の万が大きく飛躍してきている。それが面白さの追求でもあるわけだ。創立から10年位は、沢の中で泳ぐなんて考え及びもつかなかった。なるべく水に濡れないで登るのが沢登りと考えられていた。
若林●僕が「わらじ」に入る以前は、一人で丹沢なんかに行っていたんです。その頃靴をはいていましたから、いかに転石づたいに、うまく濡れずに溯行するかが、沢登りの技術だと思っていた。へつるのも、水につからないでやるのが技術と思っていた。「わらじ」に入って、水に濡れてもいいということで、これはカルチャーショックだったな。
関根●山の中で泳ぐなんて、発想の転換だよね。身近にあったんだけど、できなかったんだな。ハードフリーにしても同じだ。身近にあっても見えなかった。
若林●だからフリークライミングなり、ハードフリーなりを、岩屋だけのものと思うのは、間違いだと思いますね。山を楽しむための一つの方法なんだから沢屋なりの見直しをすればいいわけですよ。ゴーロなんか、ただ歩くだけだったのが、ボルダリングの対象になるし、これをしながら頂上まで行っちゃうなんてのも楽しみ方の一つとしてあってもいいんじゃないかな。ゴーロでも楽しめる訳だ。ボルダリング溯行なんて出てきても不思議じゃないですね。一時フリークライミングに没入しても、僕はいいと思いますね。沢星が岩登りをどんどんやっても、マイナスにはならないと思っています。それから沢へ向かうか、ハードフリーに没入していくかは、本人の好みになっちゃうけどね。その時自分で選択すればいい。
関根●道具なんかどうかね。
若林●僕は、道具はあるやつを何でも、例えは釣りの道具、岩の道具、スキンダイビングの道具でも沢登りに役立つものなら何でも使えばいい。要するに沢登りを楽しくするための道具であれば、山の道具だけに限定する必要はない、と思っています。方法として「わらじ」が沢なら沢をフィールドとしてずっとやっていれば、フリークライミングの成果を取入れようが、釣から出た道具や方法を取入れようが、いいと思っているんですよ。それで沢登りの世界が拡がればね。楽しみも増えるし。
関根●いまはハードフリーの技術は「わらじ」に影響しているしね。いろんなジャンルが扇状に広がっていくだろう。より面白く、より遊びを大きくする。これはいいことだよ。まだ秘められた沢もあるしね。
若林●時間もきましたので、この辺で終りたいと思います。本日は楽しい話をどうもありがとうございました。
(責 後藤信久)
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