はじめに
若林岩雄

年報7わらじ 巻頭言より

1983年度は「遭難」に追いかけられた年であった。それは、常日頃に意識させられてはいても、はじめは新聞記事の中の出来事としてあった。しかし、日を追うに従って次第に姿を露わし、そして遂には私達の中へ跳び込んできてしまった。いくつかの予兆があった(と感じていた)にもかかわらず、森下君の事故を止めることはできなかった。森下君の事故については別途報告(「森下道夫遺稿集」の事故報告)したとおりであるが、いくつもの不運が折り重なった結果としか考えられないような事故であった。
予兆とか予感をそのまま信じるつもりは毛頭ない。しかし、6月の他パーティの遺体収容等、7月末には粂川君の親友であった山学同志会の及川君の事故と続いた時には、1978年にヨーロッパアルプスで墜死した湯本君の件を思い出し、嫌な感じが昂じてきていた。湯本君の時も、飯豊の夏山合宿では1パーティが鉄砲水で危険な目にあっていたし、湯本君と同時期、全く同じ場所で同じように(ミディ南壁の懸垂下降中の事故)、中野氏の親友であった東京心岳会の長野氏の事故が発生していた。
一番心配したのは夏山合宿であった。その夏山合宿が終わり、ほっと一息つき、これで嫌な感じも消えていくだろうと思った。その矢先、最も信頼できる会員の一人であった森下君の事故が発生してしまった。今考えてみれば、森下君と会との関係は、湯本君の場合と良く似ていた、なんて事にまでも思いが回ってしまう。
勿論、今書いた様な関係と結果は、同じような関係の極めて稀なケースに過ぎず、反証はいくらでも出せるはずである。にもかかわらずここに記した理由は、このような事があったということを書いておけば、つまり白日に晒せば変な連鎖は、もしあったとしても断ち切れるのではないか、という拙い希いからである。

遭難対策には、遭難救助等事故処理対策と遭難の事前防止対策があろう。
事故処理対策は、今のところ都岳遵の遭対が開発した技術を会にしっこく定着させていくのが最も重要な課題である。ただ、沢の中の事故という場合には、岩場における事故処理の困難さに加え、アブロ−チの問題、搬出の複雑さ等、考えただけで恐ろしくなるような様々な要素が加わってくる。現在のところ、沢の中の事故と対応の仕方については、いくつかの事例を聞き知っているにすぎず、事例収集も充分ではない。当会における今までの負傷事故は、幸いなことに全てパーティ独力で処理されてきた。処理しうる範囲内の事故であったともいいうるが、パーティの力も強かったということも事実である。果して、現在そのカがあるかどうかということも考えておかなくてはならない。
最近、沢の事故が多くなってきているような気がする。登攀中の事故というよりも、水に関係した事故が目につく。理由は、沢の登り方の変化、ルート図集等による入谷の容易化等いろいろあるだろう。当会でも事情は同様で、巻いた所を通過する様になるし、手探りで入渓した沢も一枚のコピーで入渓できる様になっている。必然的に事故の確率は高まると考えておいた方がいい。応急的な事故処理対策は今まで以上に会員全員が徹底して習得しておく必要があろう。遭対カードはいつもちゃんと持っていますか。
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遭難防止対策は、(1)個人の技術アップ(情況判断力等ソフトな技術と、登攀能力等ハードな技術)という問題と、(2)パーティ編成及びリーダーシップの問題に分けられる。
個人の技術アップという問題は、登山の安全性を確保する上での最も基本的な事項、いわば公理のようなものだろう。そうでなければ、遭難防止は、山へ行かないことが第一となり(現在の学校教育のように)、第二は、登山道、施設の整備による観光地化の徽底しかない。つまり自然から「自然」を疎外することによる人間の安全の確保である。
パーティ編成及びリーダーシップの問題はいろいろ複雑な問題を含んでいる。パーティを組むことが必ずしも安全につながるわけではないし、リーダーシップの問題も完全無欠のリーダー像を想定すること自体に無理がある。
パーティ編成の問題は、以前(月報315号1982年6月の深山幽谷欄)、2級の人と5級の人の組合せを想定して考えてみた事がある。いろいろと批判をいただいたため、再考してみようかと思ったが、疲れたので若干手を入れ再録する。手抜きを、平にご容赦。
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登山の「危険性」の問題をパーティ編成という観点から考えてみたい。パーティ編成といっても、ここでは〈初心者同志〉〈初心者とベテラン〉〈ベテラン同志〉の3類型を想定するにすぎない。また初心者とかベテランという言い方は意味不明であるし私の嫌いな用語なので、ここでは初心者を2級クライマー、ベテランを5級クライマーというように単純化する。もちろん生活技術とか山に対する知識という面では2級、5級の区分は意味ないが、しかし山に対する技術の中で可視的なもの測定可能なものは岩登りのグレードに準拠した判断だけであろう。
パーティ編成の仕方としてA〈2級+2級〉・B〈2級+5級〉・C〈5級+5級〉の3パターンを考える。通念に従えば安全度第一はCで以下B・AとなりAが最も危険である。これは常識としては多分正しい。しかし、これは対象ルートを固定した場合、例えば3級ルートを想定した場合にのみ、A→B→Cの順に安全度が増すにすぎない。Aが3級ルートを登る場合とCが4級ルートを登る場合、どちらが危険か。多分Cの場合であろう(注、この場合でもAの方が危険という意見が多くあった)。従って、CとAではどちらのパーティが危険かと問われれば、Aが2級以下、Cが5級以下のルートを採用する限りにおいて「同じ」である。
問題はB〈2級+5級〉の場合であろう。避けることのできた事故の多くは、このBの様なパーティ編成の場合に発生しているのではないかという仮定が私にはある。
C・Aのパーティ編成とBの場合との違いは、C・Aはパーティ編成の技術レベルが同質であるのに対し、Bはレベルが異っているという点にある。パーティの成員が同技術レベルであるならば、ルート採用の判断、ザイル使用の判断等は此較的容易であろう。誰れが判断者(リーダー)となったとしても、自分の技術レベルを判断基準としていれば良い。その判断に問題があっても相互にチェックし易い。また、どちらか一方に故障が発生していたとしても、その故障がパーティの行動にどのような波及をもたらすかを推量することは比較的容易である。
ところが、パーティの技術レベルが異なるときは大抵の場合、判断者は上位レベル、ここでは5級の人になる。逆の場合はむしろ問題がない。2級の人が判断者であるならば3級以上のルートを避ければ良い。
5級の人が判断者になった場合、判断基準をどこに置くのだろうか。訓練山行やプロガイドのように2級の人の参加を前提にしている場合は問題はない。ところが一般的な山行では、判断者は判断者のレベル、つまり5級のレベルで物事を考えるだろう。そこでは技術レベルの格差が大きければ大きい程、情況の変化が急激(緊迫化又は弛緩化)なほど事故の確率は高まる。5級の人は5級のレベルでしか判断はし得ないし、2級の人間にはなり得ない。2級の人が5級のレベルの判断で山行をさせられたとしたら、考えるまでもないであろう(多くの場合、5級の人の方が装備も良い)。ただし、判断者が5級であったとしても想像力を働かせて2級の人の安全を確保することはそれほど難かしくはない。むしろ通常の形態であろう。しかし、難かしくはないが、常時そうであるという保障はない。アブロ−チにおける事故、終了点以後の事故等はこの錯覚に起因する場合が多いのではないか。避ける方法は、訓練的な山行以外はこのようなパーティ編成を避けることと、2級の人は自分が2級であることを、常時、判断者に意識させておくことだ。恐いと思ったり、無理だと思ったらすぐ口に出すことだ。判断者は判断者のレベルでしか判断していないということを肝に銘じておくべきだろう。
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リーダーシップの問題も、ついでなので、誠に申し訳ないが、月報331号1983年10月から若干手を入れ引用する。なにせ、中年は疲れやすいのです(来年からはこの「はじめに」欄は輪番制にします!)。
当会の山行の中心は、合宿であり、集中山行である。これらの山行において、チーフ・リーダーはどのような思考過程を経て対象ルートとメンバーを決定しているのであろうか。実際は、経験と勘と称するブラック・ボックスの中でゴチャゴチャと決めてしまうのであるが、そのB・BOXの中味を少しばかり太陽の光にさらすことにより、パーティ編成等の問題を考えてみたい。
(1)対象山域であるが、これは、リーダーにとって「未知の山」又は「既知の山であっても未知の季節」というケースが多い。言葉をかえれば「行ったことのない山」であり、それは行ってみなければ「難かしいのか、簡単なのか、面白いのか、つまらないのか、わけの解らぬ山」である。この点が当会のパーティ編成を考える上で最も基本的なポイントかつ問題点となる。「親睦」をねらいとする山行(山岳会)や、商業山行であれば、こういう発想は絶対許されない。リーダーが知らない山へ会員を連れていくこと自体、それだけで刑事事件ものになりかねない。
(2)従って、リーダーは「既にルートを知っている人」では当然ありえない。リーダーも白紙の状態である。だからリーダーの条件は、白紙の上に絵を描くことのできる人、つまり総合的な判断力を持っている人である。判断力の中には当然に「無理だから止めよう」という判断も含まれる。また必ずしも6級のルートを登れる必要はないが、しかし、4級を安全確実に登れない人は、判断力も不安定であり、その巾も狭いという目安はあるかも知れない。
(3)メンバーがリーダーに「難かしい沢ですか」と聞いても、リーダーは「行ってみなきゃわからない」としか答えようがない(現在はルート図集等により事前判断はかなりできるが)。この関係は合宿や集中山行におけるチーフ・リーダーとリーダーの関係も同様である。チーフ・リーダーは確たる根拠を持ってルートとパーティを決定しているわけではない。なんせ「行ったことがない」のだから根拠がありようがない。従ってチーフ・リーダーが「一番簡単だ」と考えてパーティを編成した沢が、実際は「一番困難であった」ということがあっても不思議ではないし、チーフ・リーダーの責任とはいえない。
(4)以上から、リーダーとメンバーの関係は、案内人とお客様、という関係ではありえないことは明らかだし、同時にリーダーに全幅の信頼をおくこともないものねだりということになる。リーダーは、いわば状況の変化に対応するための「判断の最終決定者」にすぎない。リーダーは事前に情報をもって山へ行く訳ではなく、登りながら情報を集め、考え、そして判断していくわけである。普通にいえば「場あたり主義」である。かっこ良くいえば「創造的」ということになるんだろうか。
従って、メンバーはリーダーに盲目的に従うという人では困るのである。リーダーの情報収集や判断を的確に補佐することが重要な役割となる。
(5)山行の成否・パーティの安全は、リーダー一人の判断によって確保されるのではない。リーダーを中心とした各メソバー相互のチェック機能が働いて初めて確保される。その中には当然に、誰をリーダーとするかという問題のチェックも含まれる。
リーダーが神様であれば話は別だが、大低は平凡なオッサンである。情報収集ミスや判断ミスが起こりうることを前提としてメンバーは山行に参加すべきであろう。
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付言しておくと、以上のようなパーティ編成の問題やリーダーとメソバーの関係の問題は、いわゆる同人的組織であれば発生しない。同人的組織の場合は、成員は各個独立しているし、責任も各個人に帰属するから、組織の問題というのはありえないはずである。かつては、組織において一人前となった人が、一人前になることにより組織が逆に障壁となり、その結果、同人的グループに寄り集まる、という形であった。いわば、組織を踏み台にして、同人が成立していた。しかし、これからは「プロガイド等による講習会→同人」という形が主流になるかもしれない。まあ、ここらへんは全く別の次元の問題なので別の機会にしよう。
先日、鈴木雅士氏、つまりマサシくんが面白い事をいっていた。「わらじ派閥構図」である。わらじには派閥があるといって5〜6種をあげた。これも面白いテーマで、こういう話しは大好きなのだが、暇がないのでちょっとだけ。私の個人的感想は、組織内に自立したリーダーが複数いれば必ず派閥ができる。従って、もしマサシくんの言が本当であれば、これほど有難い事はない。逆にいうと、自立したリーダーが一人しかいなければ派閥はできない。外面的にみればまとまりの良い組織ということになる。しかし、一人のリーダーに依存せざるをえない様な組織は持続的な成長という事は期待できない。派閥の問題はそれが足の引っ張り合いを演じるか、それとも相互に刺激しあって充実させていくかである。政党に例えれば社会党と……、会社に例えればゴマスリ出世型経営と独立採算の事業本部制ということになろうか。いずれにせよ、派閥自体はエネルギーの固まりである。それが組織のガンとなるか、活性化のための核となるかは今後のやり方次第であろう。
「はじめに」欄は、今年は書かないと騒いでいましたが、結局はこのていたらく。再び貴重なページ(1頁増える毎にうん千円かかります)を浪費してしまいました。毎回つまらぬことを云って、ひんしゅくを買っており申し訳ないことです。

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