はじめに
若林岩雄

年報8わらじ 巻頭言より

A月a日
先日、久しぶりに沢へ行った。沢というより「山」へ行った。東ゼンである。沢もまあ楽しかったが、それよりも目一杯汗をかいて、宿便の如くこびりついたアルコールやら、ニコチンやら、仕事の残骸やらのもろもろの毒素を洗い流し、気分良く稜線を漫歩できたことが−番有難く、嬉しかった。汗を流すためだけならゴルフでもテニスでもいいが、ゴルフをやるほど金はないし、テニスギャルをみているとドッと疲れがでるほど年をとった。私はどうやら、沢屋でも、山屋でもなんでもなく、単純な健康維持派であるらしい。
最近、沢登りの世界もいろいろな流派があるようだ。これからは泳ぎだ、いやドライな沢だ、アホアホ創造的人間は川下りがナウイ、沢登りの真髄は源流域にではなく中下流域にある等々……。どれもなるほどと思う(本当です)。特に中下流域の渓谷の素晴らしさは、飯豊の林道から見下ろした記憶をたぐってみれば恐怖と共にすぐ想い起こされるし、今は亡き高瀬渓谷も眼底に焼きついている。
同時に、沢屋と釣屋の確執も本格的になってきた様だ。昔は冬山の残骸や、山小屋からのゴミがひどかったが、今は渓谷のゴミが深刻になりつつあり、釣をめぐるケンカに迫力を与えている。「山屋は山のてっペんからゴミを流し、釣屋は山の下からゴミを積み上げていく」なんて呑気な事もいっていられない気配だ。しかし、沢屋と釣屋のケンカも、あきるほど繰り返せばそのうち自然に嫌になるでしょぅ。ゴミは残るが、ケンカは岩魚も食わない。いや、岩魚は喜ぶかな(しかし、年報の校正をやっていて、釣師のゴミに対して本気で怒っている人が多いので驚いてしまった。私の認識は甘かった様だ)。
志向性が多様化した結果として、逆に、道のない山から人がいなくなる。つまり、非ブランド的山へは誰も行かなくなり、いわゆる「不遇な山」が増える。これは私個人としては有難い事だ。「不遇な山」は「不遇」なままでいい。観光地化された山から人がいなくなれば何割かの地元の人の生活が脅かされるが、そうでない山へは都会人が行かなくなっても誰も困らない。困らないから山を改造する必要がなくなる(もっとも、もっと大規模な破壊のおそれはあるが)。ひところの開拓ブームは既に終焉し、公園化された山はますます賑ゎい、それ以外の山は静かになった。もう、それでいいんじゃないかという気がする。
私は人間と触れ合うのは満員電車でたくさんだから、人のいない山へ行く。

B月b日
当会のキーワードは「地域研究」「沢登り」「渓谷から頂へ」「パイオニアワーク」という様なものだった。
しかし、既に「空白の領域はなくなった」(年報4)。そして年報5で「沢登りも独創の時代、質の時代、課題は自らが探し解決していく時代」というような事を云ってしまった。
その結果ではなかろうが、今のわらじは個人の集合体へと変化し妄。A氏は海外の山や沢へ、B氏はゴルジュ突破と冬の沢へ、C氏は有名大溪谷巡りへ、D氏は下田・川内至上&地元主義へ、E氏は良くわからないがフリーにこだわりつつ未踏の壁へ、F氏はより一層伝統回帰へ、G氏は専らハードフリーヘ、そして、かつてH氏やI氏がやっていたゴムボートやカヌーに興味をもつ人も出始めた。私はといえば単純な山歩き派に回帰し始めている。
最近はやりの「ホロン的」組織論、つまり組織を生物になぞらえ、部分の個性的な自律性と他の部分や全体との調和という観点で組織を把えるという考え方からすれば有難いことではある。しかし、ただ一点、何を全体とするかという軸がみぇなくなってきた。企業であれば簡単だ。業績を上げることが軸となる。スポーツ的世界でも同様に、相手に勝つことが軸となる。
「地域研究」は考えてみれば、大きな軸であった。

C月c日
飲み屋で酒を飲んでいる時、交換価値や使用価値はあるのに、なんで『自称価値』がないんだろうかという議論になった。交換価値は商品価値、いってみれば偏差値のようなもの。使用価値も何かしら役に立つというニュアンスを含んでいる。役立たずのものに入れ上げる価値、つまり自称価値が何でないんだろうか。そういう人間は、多分少なからずいる。いても世間からは相手にされない。そして、相手にされないが故に価値がある、というような議論であったその時ふと思った。今の山登りも交換価値の山登り、偏差値的な山登り。あらかじめ、先進諸国によって与えられた価値基準の範囲内での山登り。偏差値が高い高いと主張しなけりゃならない山登り。だから、偏差値が低くなったら恥かしいから山を止める……。なんて事になったら寂しくなる。偏差値の低い私のいる場所もなくなってしまう。
寂しくなって思わずわめいた。
「自称価値の世界で山を続けたい」

D月d日
今年も私が代表を勤めた。当会における各氏の実力からすれば、とても私が代表を勤められるものではない。世間一般の常識において、そうである。人間に例えれば、私は心臓でも脳ミソでも、胃でも肝臓でもなく、せいぜいの所、直腸か膀胱ではなかろうか。いってみれば終末処理場である。そして、その処理能力も低下している。世代交代に真剣に取り組まなければならない。五年も澱めば水は腐る。そして、願わくば「古川に水絶えず」でありたい。
また、私は心配性なので会員諸兄にお願いしたい。いつも言っている事だが、入山届、下山届は速やかに提出し、連絡事項はなるべく早く、そして確実に。それに、山行の約束はいってみれば女の子をデートにさそう約束と同じことだ。無断で破れば、ふられる。
遭難事故は、全てが天災と云えるかもしれないが、逆に全てが人災と云いうる面をもっている。
情報が整備されるに従って、「赤信号、みんなで渡れば恐くない」式の登山も増えてくる。しかし、山を切り崩した住宅地は、どんなに多くの人が住みつこうと、いつかは一気に崩壊するような気がしてならない。同様に、人があふれ返ろうとも通が整備されようとも山は山であり、沢は沢だ。人間の都合とは関係なく動いている。
山の中では、いつでも自分の感覚を信じて、最大限の注意を払って、今年の山を、そして自分の山を(「自称価値の山」を!)楽しんで下さい。

 

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