はじめに
若林岩雄

年報11わらじ 巻頭言より

1987年、88年の新規入会者は各々10人を超えた。これは、76年頃及び81年、82年頃と同様又はそれ以上のレベル(もちろん量的にですが)である。
この数字をどう読むか、つまり、(1)沢登りや登山とか山岳会に対する構造的な傾向=「登山の奇蹟的かつ現代的復活」と読むか、あるいは(2)「どういう訳か、5〜6年毎に入会者が多いんだよ」と単純な循環論として読むかはなかなか興味ある課題であるが、そんなこと考えたって結論は出そうにないので止めよう。でも、ちょっとだけ感想を言ってしまうと(悪い癖だ)、それは「最近の若い人は、沢登りとかアルパインとかハードフリーとか山スキーとかに対する旧世代的こだわりが殆ど無いのではないか」ということだ。
もちろん、その人の好みとか、得意、不得意とかはある。それは当然のことだが、例えば、「ハードフリーは登山であるといえるか」なんて発想は既に無い。「どっちだっていいじゃん、面白ければ」という答えすらなく、相手の顔をまじまじとみて、「ひょっとしたら、この人エイリアンかもしれない」と思われるのがおちだろう。
極端にいうと、飯豊の沢を楽しむのと同じように一ノ倉沢へ行き、そして同様にして小川山や城ガ崎へ行く。どちらかというと沢登りが好きとか、岩登りが好きということはあっても、少なくともハードフリーを否定することによって沢登りを語るという様な人は居なくなった(僕の様な外野席の住人は「ハードフリーはもうじきオリンピックになりそうだから、そうすると人工壁があちこちに整備されて便利になるなあ。これで、山へ行くためのトレーニングの場所に不自由しなくなる。有料人工壁をつくって一儲けしようかなあ」なんて低俗な発想に繋がってしまうが)。
さらに、一頃は、他を否定あるいは対立させることによって、自己の山を語ると言う部分があった。アルパインかハードフリーか、岩登りか沢登りか、さらには渓谷登攣か沢歩きか、ゴルジュは泳ぐか高巻くか等々。
しかし、今の若い人達はそういう確執とも、あらかじめ縁が無いように思える。つい最近、ある人にちょっとした理由で月報391号(88年10月号)を送ったことがある。その返信に「(前略)『わらじ』楽しく読ませて頂きました。胎内川は前回(年報4)と同じ坂上沢左俣ですが、本谷(右俣)も絶対面白いので、是非一度行ってみて下さい。このうち本源沢手前のC・S5m滝を直登したのは凄い。私もトライしましたが、激しい泡立ちと滝しぶきの上に、取付点がつるつるで遂に水から這い上がれず敗退し、心残りにしていました」。ここまでは普通に読んだ。しかし続けて「こういうふうに一つのルートが、成長し、進歩して、よりスッキリしたルートになっていくのは、見ていて楽しいものです。こういうのは岩登りに限らないと思います。(後略)」とあった。僕はこれを読んでなるほどと思ってしまった。恥ずかしながら、こういう感想を素直に、かつ簡単明瞭に表出できる人はやっぱ凄いと思ってしまうのである。
「渓谷から頂きへ!」をキャッチフレーズとする「わらじの仲間」としてはどうなんだろうか。
簡単にいうと、沢登りが面白く在りつづければ存続するだろうし、沢登りというより、『山という総体』に対する興味がなくなった人が多くなったら単純に消滅してしまうだけのことだろう。そして、そう言えるのは「沢登りは、多分これからもより以上に面白くありつづけるだろう」し、夏合宿を沢にする理由も、当会が沢登りの会であるという理由ではなく、「沢登りが一番面白いという自信」があるためなんだが、しかし、読みがはずれたら「ごめんなさい」。
もし、沢登りという言葉にこだわるのであれば、そのこだわりは「他を否定することによって自己を主張する」んではなくて、自己の行動によって主張するか、もしくは「沢登りは山という総体を対象とし、沢登り技術とは山の中を自由に歩き回るための総合的な技術であり、従って、あらゆる技術は沢登りにとって有効であり、あらゆる山行形態は沢登りにとっても有益である」とかなんとか言って沢登り至上主義的な気分を満足させていればいいのである。
ところで、実は私はそんな議論(何を言いたいのか本人もよくわからなかったが)に拘泥している暇は無いのである(充分やっているくせして!)。
恐ろしいことに「私はもうじさ40歳!」になってしまうのだ。考えてみれば、僕がまだ餓鬼だった頃、40歳といえば「なんでも出来、なんでも知っている頼りになるおじさん」であった。
今、ひょっとしたら自分も同じ立場に立っている様だが、一家の大黒柱としての存在感の点でも、頭の中身や貫禄の点でも、40歳という年功は遥か彼方に在るような気がする。しかし、確実に自覚しておかなくてはならぬ事は、『手持ちのカードの残りが少なくなった』ということだ。
もしかしたら、少ないどころか大して残っていないかもしれない。現在の状況からすると、かなり確率の高いケースとして想定しておかなくてはならない。
僕と同年配の知人の中に、カードを使い切ってしまった人が何人も現れ始めた。ガンであったり、心筋梗塞であったりする。考えてみれば、幼児期までの食糧事情、成長期における様々な食品添加物等、現在のストレスごっこ的状況からみると当然の結果かもしれない。年報8の、「交換価値や使用価値はあるのに、なんで『自称価値』が無いのだろうか」という議論をした知人も、つい先日肝臓ガンで逝ってしまった。多分酒の飲み過ぎだろう。それに付き合っていた私もやばい。しかし、彼は奥さんと子供たちに新築の家と投資目的の数戸のワンルームマンションを残した。私も、サラリーマンでありながら不動産鑑定士でもあった彼から不動産投資のノウハウを授かったが、新貧民層である私にその余裕は無く、従って1988年11月1日現在で残せるものはな〜んにも無いのである。もちろん、将来ともその展望は大して無い。
残せるものが何も無い私に出来ることは唯一である。それは私の手持ちのカードの使い方に細心の注意を払うということだ。
例えば、趣味の一つである山登りも、遡りたい沢、登りたいルート、立ってみたい山頂が際限無くある。しかし、手持ちのカードは透けて見えつつある。そうすると、私は今後の山行とか山岳会への対し方も従来の戦略を見直さなくてはならないのだろうか。
すぐ思いつくことは、第一に家族の生活と健康を確保することが大前提となる。じやないと山へなんて行けない。
第二に「山行を厳選しなければならない」。なんせ、手持ちのカードが少ないのだから、一枚で終わりにする訳にもいかない。怪我とか凍傷とかでカードを切る械会をパスする事態も避けねばならぬ。子供の頃から、御飯は最後の一粒まで拾うように脳細胞にプリントされているから、最後の一枚まで最適な時期に最適な方法できっちり消化しなくてはもったいない。
そうなると、第三にメンバーも厳選しなくてはならぬ。論理的に考えるとそうなる。さらに論理的に考えた結果、ある懸念にぶつかった。「そういえば、最近ハードフリー派が私を山行に誘ってくれなくなった」。そうか、私も厳選されていたのか。そういえば、飯豊合宿の下山途中のストレッチごっこで、皆から私の体の固さに呆れられてしまった。特に女性陣には冷笑を浴びせられてしまった。そうか、こんなに体が固い人間がくっついて行ったとしても邪魔になるだけであったのか。それに、笑った連中が若いとはいっても、彼及び彼女達もはたして何枚のカードを持っているかわかりゃしないのだ。優しい中年は、そんな貴重なカードを私のために浪費させてしまうに忍びないとも思いやってしまうのだ。
しかし、こういう選別の思想は現代の流行とは相反している(一方で、差別化が重要な商品販売戦略ともなっているが)。現在は「オトコ型社会」から「オンナ型社会」に移行しているらしいから、つまり「やさしさ」とか「繊細な感覚」とか「細やかな気づかい」とか「楽しむ」とか「見てくれ」とかがキーワーズとなっている。登山の世界でも「明るく、仲良く、楽しく」が大事なのである。そこに、「あんた実力がないから駄目よ」とか「トレーニングもしないで一緒に行こうなんて甘いよ」なんて言ったら袋だたきにあってしまうだろう。
なんせ、小学校の運動会のカケッコなどでも、1等とか2等という順位づけは子供達に対する差別だから止めようなどという先生が現れる時代なのだ。
それに、「多様化の時代」という言い方の中には、極論すると「私は私、私はこれでいいのよ。とやかくいわれる筋合い無いわ」とか「そんなかったるいこと嫌よ」というような「自己の現状の肯定的固定化」が含まれている様な気がする。
しかし、40歳になったら、自信をもって言ってしまえるのだ。「どうぞご自由に。しかし、あなたに私のカードをあげる訳にはいかない。なんせ、残りのカードが少ないもんね」。ただし、40歳以下の人には、「まだカードが一杯あるから、無駄に使うというのも勉強になるよ」とちょっと言っておきたい気もする。それに、初心者とか色々な人と一緒にいくのは様々な勉強になることは確かだ。さて、そうすると第四に、選別の基準は何か、ということになる。それは、多分、その人の持っている情報価値であろう。つまり、その人が他の人に対して発信しうる何かを持っているか否かになる。それは、例えば登攀力であったり、高山植物や樹木、山菜やキノコに関する知識であったり、野鳥や動物の生態に関する知識であったり、山名や山域情報、山へ行くための車の抜け道情報であったりするだろう。
つまり、カケッコで1等になるのを「差別だ」として否定するのではなくて、カケッコでビリなら、お絵描きで1等になろうとか、お歌とか、お勉強とか、お裁縫とか、沢登りとか、なにかそれなりに頑張ればいいはずである。そして、「思いやり」には「一方的に思いやりを受ける」とか「現状の単純な容認」を期待するということではなくて、拒絶されることを含めて相手の立場を「思いやる」ことをも含んでいるはずである。
しかし、ここまでくると、「じゃ、山岳会って何」なんてことになるかもしれないね。酔った勢いでついでにやっちゃおう。
昔と今との最も大きな違いは何だろう。それは多分「山岳会が新人育成から漸く解放された」ということであろう。もちろん、うまく育ってくれれば報われた。しかし、多くの場合そうではなかった。それは何も育たなかった人が悪いというのではない。入会者にとっても、そんな思い入れは迷惑だっただろう。むしろ構造的な欠陥であったと言うべきなのである。しかし、今漸く山岳会は「無料登山学校ないしは無料ガイド」である必要がなくなった。
以前なら、ぼくらが登山技術を身につけようとすると山岳会に入る以外なかった。対して今はプロによる各種よりどりみどりの有料ガイドや、岳連による有料講習会とかが一般化している。また、各山域のガイドブック、沢のガイドなどの充実度は以前とは比べようもない。今だったら、技術を身につけようと思うだけなら、山岳会に入る必要性はほとんど無いだろう。その代償として金はかかる。それも当然のことである。
では次に、「わらじの仲間」はどうするか。回答は簡単である。折角山岳会が自由になったのだから、あるいは、旧来から固定されてきた存在意義から解放されつつあるのだから、それを最大限いかさぬ手はない。ではどう生かすか。抽象的に考えても仕方がないから、僕にとって何であるかを列挙してみよう。
(1)パートナーの確保。これは、その人の性格の裏表、抜けている所.等良く知っていた方がいい。特にやばい所へ行く場合は。
(2)遭難対策及び遭難対策技術の習得。これは、現状では山岳会でやるしか無い。
(3)山域情報、技術情報の特権的入手、及び交換。当然、一方通行は良くないし、面白くもない。たまには、「あんたこんなことも知らないの。じや、教えてあげっから」と言ってみたい。情報を安売りする必要もない。
(4)技術習得。若い連中にトップをやられると情け無くなるが、実力の違いは如何ともしがたい。しかし、常に「負けてたまるか!」とありたい。
(5)伸びようとする人を、より以上に伸ばす楽しさ。これは無料ガイドとは違う。タイムラグを伴ったギブアンドテイクの原則である。もっと端的に言うと将来のパートナー確保のための投資である。
(6)合宿及び集中山行というような組織的なゲームとしての面白さ。与えられた自然条件の中で、場所と時間とメンバーと登り切ることを想定した、面白くもシビアーな、そして素敵な『サバイバル・ゲーム』である。
(7)気分転換及びストレス解消。集会で言いたいこと言っていると愚痴酒よりは遥かに良いストレス解消となる。
(8)社会情報の入手。これは余り言いたくないが、私の商売にとって比較的良質な情報源となる。有料的・最近流行的各種サロンよりは遥かに価値がある。公私混同的ですみません(ただし、公の私への侵略)。
つまり、お互いの得意分野を有効に活用しあえる組織、お互いの知識や技術をギブアンドテイクしうる組織になるだろう。自由になったからこそ、その組織の成員が何か一つは得意なもの、相手に与えられるものを持つことが出来るか否かが分かれ目となる。
さて、少々くどいが、私は私の残り少ないカードを有効に使うためには、トレーニングをしなければならない。体内に蓄積されたアルコールとニコチンを少しでも追い出さなければならない。じゃないと「厳選」されてしまう。負けるわけにはいかない。
最近どういうわけか私のカミさんが「私も沢へ連れていけ」と言い出し、ジェーン・フォンダのワークアウトのビデオ5部作を入手し、トレーニングを始めてしまった。
私も頑張らねばならない‥‥‥‥。
「おおお、どうしたことだ。ジェーン・フォンダが画面から飛び出し、私に近づいてきた。大きな顔、豊満な……が迫ってくる。しかし、もう50歳だというのに…、なんという……」
「もしもし、お客さん。終点ですよ。なんですか、涎なんかたらしちゃって」
「あ、あ、ジェーン・フォンダが…」「お客さん!もうすぐこの電車は車庫へ入りますよ。早く降りてください。もう酔っぱらっちゃって。あんたこの前も乗り越したんじゃないの。しっかりしてよ、もう終点なんですよ!」
「う、う、俺はまだ生きている……」
「終点です、お客さん!けとばすよ、はんとに!」

 

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