はじめに
若林岩雄

年報12わらじ 巻頭言より

先週、実は1989年11月3日〜5日、大町の田舎へ帰ってきた。11月3日は天気の特異日らしく、やっぱ快晴であった。後立山の峰々には雪がうっすらとのり、蒼空の中に輝いていた。僕の田舎の家の二階から窓を開けると、否が応でもそれらの峰々が目に入る。
蓮華やら爺やら鹿島やらをしばらく見ていると、その中の小さな尾根やら谷やら、そして尾根上のちょっとしたピークやら、滝があるらしき黒々とした部分が目の前に大きく拡がってくる。昔からそういう部分をみると、痛切にその場所に立ってみたい、自分の身を置いてみたいと思ってきた。今でも、ふとそれらの峰々を見上げると眼が引きつけられ、あそこはどんなふうになっているんだろう、あの小さなピークにはひょっとしたら眺めの良い草地があるのではないか、なんとかしてそういう場所に立ってみたいものだと想わずにはいられなかった。こんな年になり、飲んだくれであり、ヘビースモーカーであっても、昔と同じなのである。
田舎に帰ると様々な雑音が耳に入ってくる。中学の時の同級生はなになに会社の社長でガソリンスタンドを手広くやっているとか、なになにさんは市議全議員で活躍しているとか、なになには若い嫁さんをもらったとか、まあ、忙しいことである。そして、そういう世俗的な動揺の中、こうして山をみていると、僕にとって山とは何物であるのかと一応考えてしまう。僕と同じ様に山を見ていた人間は、大町市の人口の3万人位はいるはずである。にもかかわらず、山菜や茸とり、岩魚釣り、あるいは仕事以外で、物好さ山登りをやっている人間はごく限られているだろう。少なくとも、僕の小学校や中学校の同級生のうちで僕と同じ様に山へいっている人間の話は聞いたことがない。
僕自身、なんで俺がこんな風になり、これでいいんだろうか、と自問することもあるが、特に回答はでない。が、最低いえることは、どんな山であっても、例えば子供と行った八方尾根や高ボッチや戦場ケ原であっても、それらは悔いを残さない時間の内にあった。昔から、パチンコやマージャンから競馬までいろいろやってみたが、それらに費やした時間は金の損以上に取り返しのつかないもったいない時間を過ごしてしまったと悔いたものだった。
この年報の起点、つまり、1987年12月から今現在、1989年11月まではいろいろな事があった。夏合宿は再び飯豊となり、冬合宿も再び越後となった。その間に『飯豊』TVや『沢登り技術メモ』の刊行とかがあり、その上、大作業となるのであまり手をつけたくなかった『飯豊』の取りまとめに手をつけてしまったりした。ここまで手を広げると流石にバテる。生活や仕事がどうなっちゃうか不安にもなる。漸く、戦線縮小した方がいい時期にきたようだ。
新しく入会した会員数も予想以上で、集会の椅子が足りなくなるようになってしまった。OB等の人達も新しい色々なグループをつくって自分たちの山や谷を楽しむようになった。会の山行についても、僕なぞがとやかく口を出す余地はなくなった。当会に入会した人は、在籍する限り、「3年たったら必ずリーダーになり、5年たったら誰が代表にさせられても文句はいえない」、という私の基本方針も軽く実現しそうな気配だ。合宿のリーダーの顔触れも、ここ1〜2年の内にガラリと代わるだろう。
また、ぼくらも昔のように勢い込んで『山をやる!』とか、結婚したり子供ができたり仕事が忙しくなったら悲壮な覚悟で『山を止める!』、というような大袈裟なものはなくなり、時間があったら、なるべく山の中を蠢いて居たいという感じになってきた。
わらじの仲間の会員数も時代によっていろいろ変化してきたが、ここ数年は会員数も増える一方になっている。しかし、会員が少ない時は「まあ、1人でも残っていれば消滅することはないから、ジタバタしても仕方ない。自分達がやりたい事をちゃんとやっていればいいのだ」と覚悟をきめて、寂しい思いをしながらも好き勝手にやっていたが、会員が増えてくると単純にホッとした反面、合宿などのパーティ編成等でリーダーの悩みが多くなったようだ。もっともこの問題は、実は会員が少ない時の方がもっと深刻だったが。
今までの方針は、「一番苦労している人間が一番発言力を持つ」、「少なくとも、伸びようとする人間の頭を押さえつけることだけはしない」と非民主的言辞を弄し、「自分のやりたい山、できる範囲の山を自由にやればいい」と言いながら、「但し、沢登りという形態での夏山合宿と集中山行は死守する」という矛盾的運営をやってきた。会の雰囲気も、なるべく乾いた関係の中でやってきた。これは、アットホームな雰囲気とかベタベタした人間関係は苦手という私の性分なので、直せといわれても今更いかんともし難いものであった。
これからどうなるのだろうか。世間的な一般的傾向からすると、これから登山的人口は確実に増えそうだ。余暇の拡大とか、自然ブームとかリゾートブームとかがその背景としてあるが、山の中に入ろうとする人間は増えるだろうと思う。それに対応して、沢登り的な人口も増えるはずである。なぜなら、それらのブームに対しては必ず反発する人間を生み出すから、そういう天の邪鬼的な人間は、多分、沢登り的アプローチをとって山の中へ入ろうとするだろう。また、純粋岩登りの発展形態としてのフリークライミングもグランド競技化の方向を加速させざるをえないから、競技になじめない人間はやはりまたフィールドの中に戻らざるを得ないような気がする。
僕等は、会の人間があまり少なくなると寂しくなって困るが、登山人口が滅少するのは山を独り占めできたみたいで喜ばしい事態である、なんて相当自分勝手な思い方をしていたのであるが、これからはそんな都合のいい話はなくなってしまうだろう。会を単純に大さくするのであれば、それほど難しくないかもしれない。流れにうまく乗る、あるいは社会環境の方向を先取りし、積極的にPRすればよい。ただ、その場合、リーダーの負担が増え、社会人山岳会としては逆に辛くなる面も増えてくる(プロならいいが)。また、山行の質を高めよう、同質性を維持しようとすれば、例えば、点数制なり評価基準を導入しよう、なんてことになる。そういう淘汰主義は実際にはなかなか難しいし、角をためて牛を殺す的なことが起こりやすい。どういう方法をとるにせよ、綺麗な解決方法というのは無いだろう。むしろ、解決がないという矛盾的状態が、末永く山岳会を楽しむための一番の条件かもしれない。
僕の方向は簡単だ。それは、僕はまだ行きたいところが一杯あるから、生活が許せば、多分山へ行き続けてしまうだろうということだ。僕は軟弱だから、山に徹底できないが、なるべく悔いのない時間を持ちたいと思い続けるであろう。なんせもう不惑の年だから、余計なことを考えず、現状のやり方を肯定するしかないのである。

 

閉じる