はじめに
宮内幸男

年報15わらじ 巻頭言より

晩秋、いわば山登りの端境期にあたって、この一年をふりかえる。心に残る山行は数少なく、気になる山ばかりが増えていく。敗退の山もまた文字通り山のように高くなった。これまで性懲りもなく幾度も繰り返してきたことだ。思うような山行ができない、と嘆いてみてもはじまらない。山に何を求めていくのか、これを明晰すること、その上でいわば冒涜的表現だが“効率的山行”を目指していくこと、いまやそれが大切と思われる。
なにがしか心に残る、充実感ある山行は様々な局面を持っているが、ある種の達成感を伴った山行がきわだった魅力を放っている。その達成感とは私の場合、未知性と登攀性の交点からやってくる。なんとも大仰な表現で気恥ずかしい。あくまでもこれは、きわめて相対的な、私たちにとって課題となりうる未知性であり、登攀性ということである。
この両者を、現時点において両立させるのはかなり困難事である。未知性といっても、比喩的な意味しかなく、せいぜい記録の希少性(多くの場合は、それですらなく未発表性か無知性かもしれない)にすぎず、また登攀性とは、困難性を意味するのではなく、危険性(脆弱な岩場…)や不快牲(草付、薮…)、あるいは単に要求される労働量の多きを意味するだけだったりするのだろう。それでも、求めるに足る面白味や価値を見出すことができる。少なくとも、そういう“人種”がいる。
山に多くを求め、直接間接に様々なものを得てきた。それらは、自然との関係、仲間との関係において、密接に関わりながらそれぞれにおいて得られるものを大括りできると思うが、こと未知性と登攀性という両者は、それらとは質的に異なる独自性をもつものであり、特別に大切なものであると私には思われてならない。
こういった主張は、それを裏付ける具体的な行動がなければまるで説得力がない。残念ながら、いい加減かつ中途半端な私の場合、まともな実績もなく今後の期待をつなぐことも難しいのであまり信用もされまい。むろん人におしつける了見は毛頭なく、そもそも大方の理解を得られるという幻想も抱いているわけでもない。賛同者がなければ孤立するのは明らかだ。さて、どうしようか。
それでもなお、臆することなく、心意気だけは表明しておきたいと思うのである。よく似た志向をもち具体的に展開しようとする仲間の登場を願って。

 

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