はじめに
大津政雄

年報17わらじ 巻頭言より

「書くことはいつも同じ、新鮮味もなくもはや書くこともないから、『はじめに』を代わってくれ」と、原稿締切り間際に宮内代表から要請があった。チーフリーダーを降りた弱みもあって、渋々引さ受けたが、いざ書き始めてみると僕にも書くことがない。目標を掲げて、それに向かって邁進するんだ、というような檄文であれば『はじめに』的らしいが、文字にでるのは会の現状を憂うばかり。建設的な意見がないのは、我ながら癪で、本当におもしろくない。

◆沢登りの大衆化
世間では、有名な谷の情報量の豊富さ、その谷の中での混雑、また山道具屋の沢登りグッズの品揃え、売り場スペースの拡張に、沢登りの大衆化が見られる。
わらじの仲間にも、会員数の増加、会員の質の転換といった形でその波がやってきている。その波の影響からなのだろうか、ルート図集等に掲載されている有名谷の山行が多く、報告もその記録に対しての批評的ものがよく聞かれる。僕が入会した頃に、丁度目を見張るような活動が終息する気配となり、その兆しが現れだした頃であった。
今はどちらかと言うと、楽しく・楽に・面白くという山行が主流となり、ハラハラドキドキ・ハードに・面白くという山行の追求は少数派だ。前者には希望者が殺到し、後者に集まるのはいっも同じ顔ぶれだ。
例えば、薮漕ぎがひどくて、おもしろくないだのといった報告をよく耳にする。逆に薮漕ぎがひどいところだから、沢登りの原点であるプリミティブさが豊富にあって、汗まみれになって満足感が大きいと、僕なんかは思う。ワイワイ、ガヤガヤ行く山行もたまにはいいが、いつもいつもでは心に残る山行がなくなってしまう。
僕等のフィールドである森の伐採、開発、ゴミの問題等に対しても、この頃話題にのぼることが少ない。関心が非常に薄い。世界遺産に登録された白神山地は知っているが、そこで問題となっている森林生態系保護地域については知らない。そうしたことが話題になるのは、古参の会員とだけだ。
こんなふうに見ていくと、山への情熱をみたす手段として山岳会があるのではなく、単に、飲み食いする仲間を求める媒体にすぎないのかなと思ってしまう。
わらじの仲間にはすでに求心力がなくなっている
一頃は、わらじの仲間は飯豊にどっぶり浸かっていますで納得がいった。今のわらじの仲間にはそうした求心力がない。例えば、『越後』を中心に、雪渓で磨かれた谷が狙いです、あるいは海外の人跡稀な谷を目指しています、と言える顔のようなものがない。残念ながら、そういう核がなくなってきている。
会員の質が多様化しているからで片付けられる問題ではないだろう。
近頃の会山行をみると、それを痛切に感じる。やらない方が良かったのではと首をかしげたくなることばかりだ。それは、係がどうの、リーダー会がどうのというものではない。ポロポロと櫛の歯がかけるような、ひどい参加者の取り止めは今までみられなかったはずだ。パーティに迷惑がかかるから申し込んだ以上は何としても参加しよう、という気概が以前には感じられた。増してや、途中で帰ってしまうなんて信じられない。係には、もはや自分のやりたいことを実践していくおいしい魅力はなく、交通整理員のめんどうさのみがつきまとう。これでは、自分から進んで係を引さ受けて、やりたいことを具現化していく会員はいなくなってしまう。集中山行や夏合宿はもはや崩壊寸前だ。訓練山行への参加姿勢にも熱意が感じられない。技術を身につけられるというメリットを考慮しても、係は嫌気がさしてしまうだろう。レスキュー訓練などは何年もやることに意義があるのに、参加者の姿はマンネリの極みに写る。必要性に迫られて取り組んだ新たな訓練山行、確保訓練、徒渉訓練、雪崩訓練でさえ、後につながる気配はない。

◆わらじの仲間を解体しては
関根さんや若さん、宮内さんがいるから、わらじの仲間の看板はそう簡単に降ろすわけにはいかないだろうが、こうなると新入会員の積極的な募集はもはやでさない。受入れ例の体制が全くといっていいほど出来上がっていないのだから。
ある程度までであれば、組織は大きいに越したことはない。メンバーが豊富であればパートナー不足もない。しかし、わちじの仲間では、その実ほとんど山行メンバーは同じ顔ぶれだ。宮内代表の山行はきつく、厳しく、変態的だから敬遠され、その逆に、楽しく、楽な山行を組んでいる人には希望者が殺到する。
こうした分極化を肯定したうえで、わらじの仲間の組織を考え直す時期なのではないだろうか。
現役会員70数名、集会への参加者40名、この規模で話し合いになるわけがない。討論の適正規模を越えてしまっている人員だ。今はリーダー会が集会と化している。大勢の会員の前では、かしこまってしまって、口にでるのはよそゆさの発言ばかりで、素直に思いの丈を伝えにくい。こんなところを僕はおもしろくないと感じる。
職場を見回してみても言えることだが、大きな組織には必ずマイナスに働く面も多くなる。
集会に参加している人が回りに気兼ねすることなく発言できる組織、それがひいては個々の会員を丸のまま力にできる規模ではないだろうか。小さくとも元気なベンチャー組織が望ましい。
それならば、今も厳然としてあるグループを完全に組織化して、わらじの仲間といった会派の中に、各々のグループを配置し、別個に活動してみてはどうだろうか。各々の指向は尊重されるべきだ。気持ちが豊かになるような森の中を冗長に流れる幽玄な谷は僕も大好さだが、そうした谷や巻きが道となっている東京の近郊の谷ばかりで、合宿だからいきなり飯豊の谷に参加させるといった、互助的機能はそこにはない。各々のグループで活動の方向性を探っていくわけだ。遭難対策上のゆるやかな結合体にすぎなくなり、結果としてはわらじの仲間解体につながっていくかもしれない。
よく『ハイキングから冬の岩登りまでするオールラウンドな会だ』と新入会員募集のうたい文句にする会があるが、それは特徴のない会ですよといっているにすぎない。そんな会に魅力はない。自分の好みで集っている以上、他とは違う『らしさ』をみつけたい。

 

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