はじめに
若林岩雄

年報18わらじ 巻頭言より

ひところ、この欄を担当していたことがあった。年報4から12まで書いているが、よくまあ偉そうなことを書きつらねてきたものだ。しかし、基本的なトーンはいっも同じで、「現状への居直り」である。私は、神経が細やかで、いろいろ気に病みがちな、繊細なタイプに属しているので、いつも「だって、仕方ないじゃん」とか「そんなこと知らないよ」とか「いいんだよ。無理しなくたって」と居直らざるをえないのであった。
私の会活動は、90年度以降ほとんど停滞した。家庭の事情が大きいが、90年という年の出来事が尾を引いたかもしれないし、もっと別な理由があるかもしれない。反面、停滞しつつも、私は毎週のように出かけてきた。所沢に住んでいるが、東の方へ向かう事はなかった。カミさんの実家が池袋なので、諸般の事情により東へ向かうことはあったが、はとんどは西か北の方向であった。そのうち、会山行は3割くらいで、家族づれが半分以上になるだろう。山用具の物置の中も、キャンピング用品がやたらと増えた。
山に対する発想の仕方も随分と変わった。昔は「登山を続けるか、それともすっぱりと縁を切るか」的に、登山には高揚した精神の持続が必要であり、非日常的で非俗なものとして捉えていた。もちろん、観念の世界でそんなふうに感じていただけで、私自身が精神高潔であったわけではないし、実践してこれたわけでもない。
今は、観念の世界でも俗化した。山や山的なものは日常の世界になった。時間ができたらフラフラと出かける。もちろんシンドイところへは行けない。多分、「登山」という言葉を覚える前の、子供時代の山遊びのようなものに近くなった。子供の頃の遊び場は、東山であった。田舎では北アルプスを「西山」と呼び、大町山岳博物館のある一帯の東側の山を「東山」と呼んでいた。鷹狩山はその形状から「ケツ山」で、粘土質の崩壊地がある山は「ドジョッパゲ」。霊松寺山には禅寺があり、床下の砂には「蟻地獄」が巣くっていた。これらの山と雑木林が遊び場であった。秋には学校のダルマストーブの薪採り。茸はリコボウやネズミアシが主体で、子供にたいしたものは採れなかったが、充分遊べた。今も、同じような子供気分に近い。「毎日が日曜日にならないかな」と呟く度合がひどくなったので、子供時代以上に退化したかもしれない。山は何歳になったって、どんな立場になっても遊べてしまうようにできているらしい。
フラフラついでに純粋釣り屋さんとも話を交わすようになった。この人達の貪欲さには頭が下がる。登攀用異は何も知らず、持たずで源流まで入るし、焚火や炊飯、山菜、茸、岩魚料理に対する執着は見事なくらいである。「渓での生活技術の蓄積は、沢屋さんの比ではない」と豪語していたが、なるほどそうかもしれない。その自信のほどに、しばらく弟子入りしようかと思った位だが、世の中にはいろいろな人がいる。
さて、ひととおりの世の中見物を経て「これからどうしようか」という気分になった。渓を思い浮かべると、行きたい渓がウジャウジャと湧き上がってくる。岩を考えても、クラシックルート巡りはほとんど頓挫状態だ。山スキーも少しはまともに取り組んでみたい。山のプラブラ歩きも捨てがたい。登りたい山は、山ほどある。子供はまだ怪獣状態だが、そろそろまた「現状の気分に居直り」たくなってもきた。先のことは悩まずに、今やりたくなってきたことに乗っかってしまおうか。無謀かな。

 

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