はじめに
宮内幸男

年報20わらじ 巻頭言より

S女史は入会早々に私に言った。「ど−していつも集中したがるんだろう。みんなとくに仲がいいわけでもないのに」なるほど、他愛もなく私は感心した。
仲が良くなるように集中するんだ、などと反論しようとも思ったがさすがにそこまでは言いかねた。で、集中山行のよさって色々あるじゃない、といくつもの理由を並べたてた。よく言われてきたことばかりだからここには記さない。要するに仲間意識(の醸成)みたいなもの。パーティー内や教育上の効果みたいなもの。Wa氏の言うゲーム的な面白さ、などだ。春・秋の集中は言うまでもなく、夏や冬の合宿、さらには数年前からのサブ合宿(冬の集中)、通常の山行でも複数のパーティーが出来ればそれ集中と言うわけで、確かに集中山行が今や多いのである。
集中山行には会山行の面白さが集約されているといってもいいと思うのだが。ところでよく考えてみると、ここで言う面白さというのは登山本来の面白さとは違ったものではないかと思えてくる。うまく区別できないことは承知で言うのだが、登山の実現によって得る充実感を混同してはいないか。色々な楽しみ方があって無論いいのだが、もしも「登山自体」の面白さがあるとすれば、これって付属的な何かではないか。集中山行などを企画し楽しんでいる自分にとって、ちょっとゆゆしき問題に思われた。

理想的な登山とはいかなるものか、考えてみる。この年の山行から強いてあげてみると思いもかけず谷川檜又谷の風雪のヤブ尾根がそれに近かった。ルートとしてみれば多分考えられないくらいの不快さと、トーハン的な面白さの不在が同居した。他人には決して勧めることの出来ない典型的な自己満足山行なのだが、じんわりと湧き上がるものがあった。どうも、いくつかの面白さの要素があるように思えた。(1)深い思いを重ねてきた山域で、(2)人気(ひとけ)のない・過去の足跡もないルートを、(3)山の志向を共有し共に養ってきた仲間と共に、(4)厳冬期と錯覚するほどの猛吹雪の中で、(5)ともかくも(技術的でも体力的でもその他何でもいいのだが)大変な思いや苦労を重ねて頂き目指し全力を出しきった、というような。登山の魅力というのは未知性(稀少性)とトーハン性の交点にあるのだなどと大層なことを言って、大方のヒンシュクをかった私だが、今はそんな風に思っているし、これらの要素は多くの登山者にとってかなり普遍性を有するのではないかとも思う。
もちろん私も色々な山行を楽しんでいる。気のあった仲間と好き勝手に登った山があり、徒党を組んでの「組織登山」があり、家人とのんびり滑床を味わい、湯宿でくつろいだ山があった。しかし、本当の所は数少なくとも心に残る山行の実現をいつも念じている、そういう山のことをここでは言っている。山行においては当然ながら、量は質に転化できない。
集中山行に限らず会山行の特殊性(問題点)は、言うまでもなく、山域・ルート・メンバーが(場合によっては当事者が預かり知らぬ場で)係によって決定されてしまう、というところにある。そこでは当然不満が生じ、それを解消するために、個人が先か会が先かみたいなわけのわからぬ、というより決まり切った問いに改めて悩むことになる。いわば目的の逆転現象が生じてくる。それでは会山行は理想の山行の対局に位置づけられてしまうばかりだ。
ところでこういう私は、会山行に大きな不満を覚えたかというと、必ずしもそうではない。結構満足してきた。というのは多分、思いっきりワガママを貫いてきたからだし、あるいは自ら係となって「特権的イイトコ取り」をしてきたからだし、さらには係にドンドン文句をつけて意向を通してきたからだと思う。私はここで改めて、それで一向にかまわないし、むしろそうであるべきだ、と開きなおっておきたい。
ハッキリしていることは、係となったらその時一番面白そうな山行を努めて企画する。その趣旨に納得できなければ変更させるか、参加を取りやめて自ら山行を組めばいい。遠慮やおかしな理屈付けはいらない。まして個人と会を天秤に掛けるようなことは間違ってもしない方がいい。
とはいえ、より建設的で理想的なやり方はといえば、共に夢を語り、事前に目標設定を行い、同志を募り、お互いに研究し共に鍛えあって、たとえ失敗しても爽快さが残るくらいに盛り上げていくという、当会で言えば0氏やM氏(誤解はないと思うが私ではない)らの方法である。そこには、ごまかしや錯誤やムジュンの入り込む余地はない。言ってみれば会山行と理想の山行の一致があるばかりだ。せっかく山と関わり仲間となった私たちだ。そういう地平を、やはり目指したい。

 

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