年報22発行に寄せて
関根幸次

年報22わらじ 巻頭言より

昨年は当会の40周年という記念すべき年となり、現役会員はもちろんOBその他同好諸氏などたくさんの仲間たちが一同に会して、楽しいひとときを持つことができた。創立から関わっている者には希望と悲しみが入り混じった歳月であった。
創立当時の『わらじ』を振り返ると、この過ぎ去った歳月が走馬灯のように脳裏を駆け巡る。組織の形態はたいして変わらないが、会員各位の山に対する熱意、山行の内容、そして会の方向づけなどに時代の趨勢を感じるのは私の歳のせいばかりだろうか…。
例えば、メインとなる会山行というものでも平気で“足切り”をする。だれでも技術や体力、その他千差万別でも、みんな仲間として行動し力をつけていこうと頑張っているはずだ。個人差により器用、不器用があるように体力の差もあるだろう。自分にも厳しく、それなりの体力増強と技術アップも必要であろう。
しかしリーダークラスの力量はなくとも、ある程度の経験を積んでくれば仲間のフォローにより共に行動することができると思う。始めから日数に余裕を持たせることも考えられる。
つまり少なくとも会員の半数以上が参加できるような内容が“会山行”というものではないだろうか。世間には沢山の山岳会があるのに、なんで『わらじの仲間』に入会したのか、ということをそれぞれ考えてみたら解ると思う。
近ごろでは力のある人たちが難度の高い山行以外は振り向きもしない。したがってトップクラスのメンバーだけが集まってしまい、それが『わらじ』のレベルだと思っているのを耳にすることがある。
しかし未熟(?)な者を加えたパーティでは、力のある者だけのパーティより遥かに的確なリーダーシップやパートナーシップが必要である。世の中には赤ん坊から高齢者までさまざまな人がいる、と言ったら言い過ぎかもしれないが、力の差があるのは当然だろう。それを踏まえて会が存在するのだと思う。
会の中で一度でも“弱者”というレッテルを貼られると、それがリーダー間の評価になり、次には「事故でも起こされたら…」と敬遠されたり、参加を断られたるする。その理由は“力量”ですまされる場合が多いと思う。
合宿などに見られる現象ではあるが、強者のパーティと弱者のパーティと完全に別れて組まれる場合が多いようだ。あえて苦言を呈すならば“落ち葉のはきだめパーティ”とでも言っておこう。いろいろの理由で“はきだめパーティ”を組むのであろうが、リーダー会のベテランリーダーが弱者パーティを引き受ける勇気が出てこないのが残念でならない。つまり個人志向のエキスパートが会にとって良き力のあるリーダーであるとは言い切れないということだ。リーダー会はもっとグローバルな視点で山行を行うべきと思う。3級・4級が登れなければと言われているが自然はスケールの大きな“物”である。
私は一人ひとりが入会した時の初心に帰り、熱意を持って自主的に山行に取り組み、時にはリーダークラスの人に助言してもらえる…、そのような雰囲気ができれば理想だと思う。
今年は死亡につながるような大事故こそ起きなかったが、決して無事故とはいえなかった。毎年同じように集会、リーダー会で反省し再発防止が合言葉になっているが、それでも事故がなくならないのは何故だろう。特に新しい会員に見受けられる点に注目すべきである。新入会員でも一度リーダー会やリーダーの口から、「彼は、彼女は、登れて力もある」と伝言されると助言やフォローを忘れてしまう。登れる技術はあっても自己の力量、自己管理能力があるか否かをしっかりと判断すべきである。単に登れるだけが登山技術であると過信してはならない。
リーダーも然り。リーダーには包容力と寛容さが必要であり、それは事故防止にもつながる。
私はこれからも“良き仲間”と楽しみの中にもチャレンジ精神を持ち続ける山行をしていければと願っている。年金をもらいながら山をも続ける変人老人の苦言のメッセージである。(1999年11月記す)

 

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