好きで好きで仕方がない
三好恭子

年報24わらじ 巻頭言より

今、山が好きで好きで仕方がない。
山というかけがえのない楽しみに巡り合え、健康な身体に恵まれ、のほほんと山に行かれる環境に恵まれ、しかも同じ楽しみを共有できる仲間に巡り合えた。なんて幸せなんだろう。わらじの仲間の名簿に載っているっていうことは、つまるところ、そういう幸せの証しではないんだろうか。
山は楽しい。疑問を持ちながら登り続けているうちに、いつの間にかできるようになっている自分がいる。新しい視界が開ける。求めれば、与えられる。
私に授かった宝物は、小さな身体。傾斜に弱い極端な内股。頑張っても新人にも置いていかれ、情けなくて流す涙。弱いものの辛さや、どうしようもない悔しさを、身をもって体験しなければ到底わからない、貧しい想像力と共に授かった大切な恵みだ。今、登れることに感謝しよう。
弱いからといって、山が目こぼしをしてくれる訳ではない。困難は等しく降りかかり、水が流れるように弱いところに集まる。その時、誰かが私の分の荷を背負い、誰かがロープを張って助けにきてくれた。病気もした。家を空けられない日々もあった。何年も思うように山に行かれず、遅々として進歩もせぬものに、半ば呆れながら、見返りも期待せず、忍耐強く付き合ってくれた仲間がいたからこそ、今もここにいる。
いつか誰かが担ってくれたように、私は背負えるようになっただろうか。弱い仲間に喜んで手を貸し、ロープを張れる心を持てるようになっただろうか。会務を担い、係を引き受けてきただろうか。与えられる幸せに相応しい努力をしてきただろうか。分かち合ってきただろうか……。
皆で行くのは楽しい。けれど、仲間と行ってもやっぱり山はひとりだ。ひとりは楽しい。ひとりで行くときは徹底的にひとりだ。でも、ひとりだけではだめだ。そして、皆で行くんだ。どんな人間も、自然の中でははんのちっぽけなものでしかない。しかも、手持ち時間に何の保証もない。目の前に同じ喜びを分かち合える仲間がいるのに、この上些細な違いにこだわっているヒマなんか、ない。今、登れることに感謝して、山に行こう。自分の山を登ろう。
山はどうしようもなく楽しい。反面、こんなに傍迷惑で、身勝手な遊びの虜になっている自分が、いつも後ろめたい。縄文の昔から、先人は森と共に生きてきた。歳月を越えて育まれた豊かで美しい日本の森は、飽くことなく訪う私に、今も惜しみなく与えてくれる。その生命が、私の身体から急速に外へ流れ出している。登ることに注がれる膨大なエネルギーは、何に転化されるんだろうか。壊れていく循環の輪に、再び生命を蘇らせる力にできるんだろうか。それとも、いつか自ら登ることを放棄する勇気を持てる日が来るのだろうか。
だから…。
磨き抜かれた山という鏡に自分を映しながら、一歩一歩辿り着いた頂きの向こうに、次の頂きが現れ、いつか彼方に進むべき道程が見えてくるから、今週も山に行こう。

 

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