晩秋の三ツ峠で想う
岩登りの根本/自らと仲間への信頗と思いやり
宮内幸男

年報25わらじ 巻頭言より

去る秋の日、三ツ峠に行った。ハイキングではなく一応岩登りである。山を始めた頃から今にいたるまでゲレンデに行くのは年1回程度という体たらくだから岩登りが上手くなるわけがない。当然、今流行りの室内壁などに足を向けるわけもない。練習の必要性は十分に認識していながら、山中に身を置く楽しさばかりを優先して、いたずらに馬齢を重ねてしまった不良登山者が、いわゆる端境期に組まれた山行に参加させてもらうことになったわけだ。といってもその目的の半分はボッカ訓練であった。四半世紀前と同じように達磨石からオートキャンプ用の大型テントや大量の荷物を特大ザックに詰め込んで歩く。
わずかな道程だというのに、大汗がでて全身がギシギシいって、しまいにはへドを吐きそうになる。毎度のことなれど、これに耐えないことには、来るべき冬山には行けないと覚悟している。でも、この程度の負荷では段々と間に合わなくなってきたこともまた確かなのだ。

足をガクガクいわせて一般ルートを登る。腐ったハーケンと新しいボルトの取り合わせが何とも妙だ。いつもながらの人出に懸垂下降は気を使う。途中のテラスに降りたつと、登ってきたばかりのパーティが待っていた。ふと見るとその一人は、私たちのたごまったロープの上でタバコをくゆらしている。思わず「気をつけて下さいね」一声をかけた。
タバコを巡っては、幾度もの衝突と不愉快な経緯を重ねている。微妙で繊細な問題だと承知している。だから、思わずといったけれども実は自分でも情けないくらいへりくだっていたはずだ。相手は相当のベテランかつ私から見てもかなりの年配者に見え、おまけにまことに恐い顔をしていたから……。
「変なことを言うなよ」驚くほど威圧的な返答だった。まるでいわれない言い掛かりをつけられたとでもいうような。「ロープに灰が落ちたりすると、危ないので注意して欲しいということです」と、努めて冷静に訳を説いた。しかし「変なことを言うなよ。なんともないよ」と彼は繰り返す。その様子は論議をしてもどうにもなりそうもないと直感させるものだった。「そうですか。何ともないとは思えませんが」とだけ答えて、私はその場を去ることにした。私の気の弱さがそうさせたのは確かだが、快晴の素敵な一日を台無しにしたくなかったからだ。とはいえ、嫌な気分はいつまでも澱のように残った。
あくまでも印象に過ぎないが、山ヤには喫煙者が多い。少なくとも以前は多かった。会の集会、都岳連の集まり等々、喫煙者は相当の比率を占めていた。テントの中などは、まさしく「煙霧のごとし」だった時代だってあった。その煙と臭気が吸わない者にとっていかに苦しく迷惑なものであるか、喫煙者は知らない。投げ捨てられた吸殻もひどいものだった。なかにはご丁寧にもクラックの奥に押し込まれたものまであって、飽きれるほかなかったが、今日見まわしてみると、ずいぶんときれいになっていて意識の向上がはっきりとうかがえた。
「受動的喫煙が他者に与える害について無知で無頓着なのは今や怠慢に過ぎず、屋内は言うまでもないが、屋外であっても風上には立たないなどの副流煙に対して配慮するのは当然のこと」という論を月報に投稿したのは、もう16〜17年も前のことになるだろうか。本人が緩慢な自殺を図ることは勝手なのでとやかく言わない……念のため。
他会の様子は知らないが、私たちの仲間では喫煙者は極少数(たぶん1〜2人)で、集会等も事実上禁煙であり、大人気ないことを言う必要がないのは嬉しい。そう、何事についてもキマリゴトで規制するのは好きではないし、山には似合わない。
そんなことが当たり前の山の生活を長く続けてきた私にとって、この事件は今さらながらに衝撃的だった。いまだにこんな手合いがいて、しかも岩登りの先生面をして若い人たちを指導しているということが、なんとも情けなくも悲しく思われた。なにも喫煙をめぐる「マナー」のことなど問わなくともよい。防衛本能が、過剰な反応を引き起こしただけだろうと解釈してみてもいい。しかしながら卑しくとも岩登りをしている人間が、タバコの発する高温が生命をたくすこともあるロープに与えるかもしれない致命的な影響に考えが及ばないとしたら、そもそも岩登りをする資格があるだろうか。しかも彼は確かに指導者という立場に立っていた。
岩登りというのは、登る技術もさることながら、いかにして危険を回避して、より高い安全性を確保するかという工夫の体系であり、その根本は自らと仲間への信頼と思いやりにあると私は思う。
都合で仲間より先にひとり下山の途に着いた私だが、暖かい午後の斜光線を全身に浴びながらも、捉え所のないうそ寒さをいつまでも拭うことができなかった。

 

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