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50周年記念誌
記念誌「わらじ」440ページ、
飯豊特集「飯豊」476ページの二部構成
数年前より、会の内外で持ち上がっていた話に「飯豊特集」の発刊があった。古くからは和井田さん、近年になり大津さんが積極的に取りまとめていた記録の集大成である。しかし、わらじの悪い癖で、“誰か旗を揚げる者がいるなら手伝う”という風潮のまま重い腰はあがらなかった。そこで50周年記念誌の企画と重なり、飲んだ勢いで「じゃあ、ハードカバーの二冊組みだ」なんてことになってしまった。飲んだのは私と熊倉であった。
企画の立ち上げは比較的早かった。多分、昨夏の終わりころであったと思う。しかし、ここでもわらじの悪い癖を読みきれなかった。原稿の締め切りを翌春3月末としていながら、大方の原稿が只見の編集室に積まれて全体の構成が組み始められたのは梅雨が明ける頃であった。夏も秋も山どころじゃなかった編集長には感謝の気持ちで一杯である。
月報の印刷でお世話になっている株式会社アイガーの矢澤さんから「素晴らしい大作ができましたね」と褒めていただくのだが、私の胸のうちには三人の原稿を載せられなかった無念さがページをめくるたびに去来するのであった。敢えてその方々の名前を申し上げる。当時のわらじを質実剛健な体制に引率した丸山春夫さん。その記録と遡行図の完成度に人柄が偲ばれる中野陽一さん。「遭対」と「訓練」に多くの後輩を指導した渡辺輝男である。いづれも多忙な毎日で執筆の時間がさけなかったとお聞きしているが、編集を担当した私の不徳とする所であります。さらに、私の原稿依頼ミスにより、5年スパンの担当分けがズレてしまった。50年史だから10人でちょうどのはずなのだが、私が最後の2年で継ぎ貼りをするハメになってしまった。台無しである。申し訳ありません。
半世紀にわたり、脈々と受け継がれてきたこの稀有な指向性を共有した山岳会がこれまでの足跡を記して次世代に残す。そして、この節目を契機に出版された記念誌が橋渡しとなって新旧の会員たちの絆になればそれはそれで刊行の目的のひとつを果たせたのだと私は思う。
創立当初の会員には50年前を思い出して頂きながら原稿や写真整理をお願いしたことを筆頭に、多くの先輩方や現役会員のご協力を頂きましたことを改めてここに感謝申し上げます。
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二部構成の記念誌「わらじ」と「飯豊」
二冊合本ケース入
カバーを外すと渋い色の上製本
PDFfile わらじ420KB/飯豊624KB
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50周年記念式典わらじの集い
(2007年11月3日〜4日八丁の湯にて)
10年前の40周年は都内で行ないました。わらじの現役、OBあわせて80名に加え、友好団体やマスコミ関係を含め来賓は40名にもおよびました。当時の資料を手提げバック一杯に宮内さんから渡され、私の50周年への立案が始まりました。さあどこでやるか。どのようにやるか。
私は単純に、昨今低迷しているわらじだから、わらじの仲間だけで集まりOBも現役も皆ひとつになって温泉で大騒ぎがしたかった。場所の選定には時間をかけた。記念誌の座談会で若さんに相談したら「不動の湯」がいい。さらに諸先輩に相談すると、わらじのルーツだから「甲子温泉」がいい。10周年でつかった「湯西川温泉」はどうだ。とさまざまな意見があった。八丁の湯にしたのは二つ理由があります。ひとつは料金が安かった。もう一つは露天風呂の向こうに滝が落ちていたから。実は私の頭にはある記念写真の構図が描かれていた。現役もOBも、老いも若きも、男も女も、みんな一緒になって露天風呂に入る。バックには八丁の湯名物の滝が落ちており、そこには全裸で腰にバスタオルを巻いて登攀する人物がいる。さらに滝の落ち口には横断幕がかかり「祝わらじの仲間50周年記念」と書かれているのであった。
よし、これだ。これでいこう。私は早速、春の集中の係を買って出た。場所は係に一任されていることをいいことに、帝釈山脈の黒岩山で行った。もちろん、これには八丁の湯の下見を兼ねる意味合いが含まれていた。この6月の下見で私は構図のとおりとはいかないまでもまあまあの成果を得ることができた。
次に企画したのは記念品である。50周年を記念した思い出に残る品。う〜むなんだろう?名入りで安価なものをと物色した。めんぱ、箸、コップ、Tシャツ、手拭い。各種の商品群を吟味し、各種業者を打診して、最終的に本染めの日本手拭いに決めた。柄は秋の集中で丸山岳の山頂に集まった者同士で決めた。やや酒も入っていたので落ち着いて眺めてみると滑稽なデザインだと思う。実はこの手拭いにもひと波乱があった。最終の型紙を承認して発注したのが遅すぎて、業者から記念式典に間に合わないことが告げられた。私はクレーマーと化し「納期については最初に譲れない条件と申し上げたじゃないですか」と凄んでみた。しかし返ってきた言葉に驚き萎縮してしまった。「努力はいたしますが香川の天気次第では……」。そうなのか四国で作っているのか、こりゃ本物だ。天気が相手なら仕方ない、運を天に任せるしかない。ところが11月1日(前々日)にその業者から電話が入り、香川県が好天続きだったので明日、商品を送れる。ときた。ワハハ、ミッションインポッシブルとはこのことだ。
最後が宴会の出し物である。実は宿を選んでいる段階から「金色夜叉」は決めていたので、本来であるならば舞台が不可欠であった。舞台の袖で松倉が松の木になりすまし「お宮の松」を演じる。演じるといっても動かない松だから簡単なものである。それならば名札をつけて「お宮の松倉」としたらウケるだろうか。件の場面では漆黒の夜空に満月が煌々と輝いていたらしい。そうだ、満月ならばボウズ頭の岩崎が適任だ。実際に二人はよく手伝ってくれた、ありがとう。
予想以上に困難を極めたのが衣装と音楽であった。貸衣装の業者は何件かありこの時期ハロウィン以外の衣装であるなら手に入りやすい。ところがどの貸衣装もお宮に扮する和装芸者では着付けのマニュアルがあってなかなか難しい。さらに音楽(熱海の海岸)を録音する段になって、そんなマイナーなCDなどどこにも置いてないことで翻弄した。そして当日を迎えての作業分担や人張りに至っては皆目手がつけられない状況であった。さまざまな難局が訪れるなか、手を差し伸べてくれたのが三好恭子だだ一人であった。彼女は仕事柄、団体をアテンドすることには習熟していた。正直、助かった。小難しい受付や会計などは三好が取り計らってくれた。山あり谷ありで迎えた当日。現役、OB合わせて58名の参加を頂いた。折りしも秋晴れの快晴に恵まれ、奥鬼怒の渓谷美は目を見張るものであった。関根さんも菅野さんの完全看護で無事到着した。関根さんが事故に遭われてから現役にとってOB会員との接触は少なくなるばかりである。今回OBの高橋さんの勧めで名札を考えた。創立会員の関根さんと野口さんには「50歳」の名札を下げてもらった。「40歳台」「30歳代」「20歳代」と俯瞰してみれば「もう歳だから」とか「若い人たちに任せる」などと言ってられなくなるだろうと、名札に「わらじ年齢」を加えてみた。確かに今、わらじはかつてない低迷期を迎えている。がしかしどうだろう、これだけの人材の層の厚みは、およそ沢登りの世界では他に類を見ないであろう。これがわらじの財産だと思う。新人の育成は財産形成への投資なのだ。式典は関根さんの挨拶に始まり、野口さん、金子さんと続いた。歴代の会務運営に携わってきたOB諸氏からはお祝いの言葉やたくさんのご祝儀を頂いた。この場を借りて深く御礼申し上げます。懐かしの名場面集のパワーポイントでも直前まで機械が作動せずあたふたした。エンジニアを自称する松倉に感謝する。お陰で茂さんと矢野さんの新郎新婦姿に会場の爆笑を呼んだし、学生時代の宮内さんや、クライマーだった私や、筋肉質だつた辰郎さんに「嘘ォー」の激も飛んだ。
食事の準備を挟んで宴会の第二部を迎え、何よりも可笑しかったのは日本の沢登り界では重鎮とも言える若林さんが寛一に扮して菅野さん(お宮)と金色夜叉を演じてくれたこどだ。「菅野さん、今月今夜のこの月を」と始まったときには企画した私でさえ、カンペの模造紙を持つ手が震えるくらい笑えた。よくもまぁ引き受けてくれたものと今さらながら感謝の気持ちで一杯です。これも心配していた着付けが新人の生田に経験があってこその成果である。いもこ、ありがとう。惜しむらくは松倉と岩崎に海パンとハーネスとバスタオルまで用意させたにもかかわらず、滝の直登が宿から許可されなかったことであった。理由は女湯が覗けるとのことらしい。重ねて残念至極。ともあれ皆さんのお陰で50周年が無事終了することができました。本当にありがとうございました。
最後に時間調整で持ち時間がなくなってしまった須田君のスピーチが、本来であるならば遭難で帰らぬ仲間の追悼に時間を割く予定であった。楽しかっただけの催しで終わることなく、51年目からは事故のないわらじの仲間を目指して行きたい。
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