中野へ……
話したいことが山ほどあった

小林隆徳

 一体、何から書き始めれば良いのだろうか?
 山梨に住む清井から中野さんが亡くなったという電話をもらった時、「しまった……」というのが最初の正直な思いであった。中野とはまだまだ話したいことが山ほどあった。山を止めてから20年近い空白を経て、お互い老境にさしかかった現在だからこそ話せることもたくさんあったように思う。ここ何年かの間、「中野に連絡を取りたい……」という思いを常に抱きながら、電話1本さえいれることのできなかった自分の優柔不断さを情けなく思う。
 中野とはわらじの仲間、1973年入会の同期である。同期には深谷さん、佛田くんなど何人かいたが、彼とだけ「中野」「小林」と呼びあえたのは、全共闘世代という年齢の近さもさることながら、互いの山や人生を秘かに認め合っていたからかも知れない。ただ、わらじの諸先輩方の見る目は別で「中野」=真面目、計画的、「小林」=いい加減、場当り的と映っていたようで、私の信用度は中野に較べて著しく低かったように思う。入会時のわらじは丸山さんを中心に活動しており、二人とも丸山さんの山行には本当によく参加したものだが、二人だけの山行は意外なほど少ない。考えてみれば当たり前の話で、当時のわらじは、入会して暫らくは山を学ぶ立場(大学や他の山岳会で実績を残していてもわらじの尺度での力量が要求されていたように思う)であり、ある程度の技量を身に付けると今度はリーダーとして若手を指導する立場になってしまい、気の合った者同士、力量の合った者同士の山行など年に数回程度、個人山行として認めてもらえただけだったからである。思い返せば、秋の谷川岳・幽ノ沢中央壁、冬の八ヶ岳・横岳日ノ岳稜、奥秩父・笛吹川乙女ノ沢などいくつかは浮かぶのだが、吹雪のため中退した戸隠連峰西岳を除くとどの山行も余り印象に残っていない。ただ中野にとっても自分同様人生の転機となったのかもしれない1976年のアンデス遠征について少しばかり記してみたい。
 1976年のアンデスはわらじの仲間にとっては台湾・玉山に次ぐ会としては2度目の海外遠征だった。メンバーは丸山さんを隊長に、田中さん、本多さん、橋本さんに中野と私を加え6人だった。当時は今では考えられないほどアンデスは遠い世界で、装備、食料とも前もって船便で送り、ペルーでの入管手続きには随分面倒な思いをしたものである。そのため入山まで1ヶ月近くを要したが、その間リマの街での生活は見るもの全てが新鮮で、特に中野は多方面に興味を示し、こまめにメモを取っていた記憶がある。
 目標とした山、トクヤラフ(6032m)は現在でこそ、アンディニスタにとってワスカラン(6768m)と並ぶポピュラーな山となったが、日本人として挑んだのは我々が最初であり、イシンカ谷からの姿と違い、オンダ谷の支谷の氷河湖から見上げた山容は圧倒的な迫力で身の引き締まる思いだった。頂上アタックは北東稜の不安定な雪庇帯を越えて行われたが、最初の成功は本多さん橋本さんのペアによるもので、私は丸山さんと、中野は田中さんと組んで後日となった。忘れられないのは中野と二人だけだった、氷河湖の近くに張られたABC撤収時のことである。ヘロヘロになって、途中の50m近い大滝に張られた固定ロープを回収し、ホッと一息いれると、狭い谷底から見上げる空に煌々と満月が輝いていた。腰を下ろし煙草に火をつけ、二人とも暫らくの間ものも言わずに空を見上げていたのを今でも思い出す。
 次の目標だったアグハ・ネバダ・チコ(5840m)は絵のように美しいパロン谷を囲む山々の中では小さな山だったがその名の通り(アグハ・ネバダはスペイン語で針の山の意)鋭い山だった。中野と組んでアタックすることが決まった時は本当に嬉しくて、心から納得のいく登攀ができたら、これで山はおしまいにしようとまで考えていた。不安定な氷雪を纏った岩稜は予想以上に手強く、頂上直下わずか50mで時間切れとなった。ツェルトもないのにビヴァークを主張する私に、中野が下した決断は撤退だった。翌日、アタックのためACに入った丸山さん、本多さんと入れ替わりにBCに降りた中野と私は一晩中酒を飲みながらとり止めも無く語り明かした。その晩はアグハ・ネバダの頂に立てなかったという虚しさと、これでアンデスが終わったという安堵感が混じった不思議な気分でなかなか酔うことができなかった。「俺、帰ったらシモ(下島伸子=現中野夫人)と結婚するよ」と聞かされたのはこの時だったが、テント内のカセットデッキからは加藤登紀子の五右衛門節が流れていたのが何故か不思議と脳裏に焼きついている。
 登山活動終了後、中野はひとりクスコ、マチュピチュ、チチカカ湖、ボリビア方面に旅してから帰国する。
 中野は、帰国、結婚の後もわらじの仲間の活動には深く関っていた。個々人の書いたいい加減な遡行図を5万図を基に起こし直し、それまで10年に一度だった年報・わらじを毎年発行にしたのも、月報にコラムなどを加え冊子としての体裁を整えたのも、中野が編集係りとしてわらじの仲間に遺してくれたとてつもなく大きな財産といえるだろう。
 結婚後の新居が私の住むアパートから近いこともあり、よく遊びに行き、時には泊めてもらうこともあったが、「山梨に行って百姓をやるよ」と聞かされたのはそんなときだった。東京都職員という安定した身分を捨てて農業一本で生計を立てるという話に、長野の水呑百姓の倅である私はその大変さを口にしたが、「もう決めたことだから」と笑っていた。
 山梨に移り住んでから2、3年の間は田植え時などわらじの仲間の大勢が手伝いに行っていたが、お祭り気分の者も多く、その遊び感覚を嫌ってか、皆から次第に疎遠になっていったように思う。その後は私1人で何回か山梨に寄せてもらったが、最後に会ったのは多分、わらじの仲間40周年記念パーティのときだと思うのでもう10年以上になる(その後、電話で何回か話す機会はあったが)。長い間会わなかったものの、中野のブログ『農のつくる景色』を覗くと、ユニークな視点からの写真に味のあるコメントが添えられおり、いかにも中野らしなと思うと同時に、案じていた百姓一途の張り詰めた生き方に多少のゆとりを持てるようになったのでは……、と少しほっとしていた。吐血したという気になるコメントもあったが、NHKの朝の番組に出演した時の様子は明るくて元気そうだった。朝日連峰での遭難のときには、心配してOB会員に電話があったと聞き、近い将来何らかの形でまたわらじ仲間と深く関ってくれるのではないかと期待していた。
 僅か50m届かなかったアグハ・ネバダ・チコの頂はその後の私の人生を暫らくの間アンデスに拘らせたが、あの時のアンデスの山と旅は、その後中野が百姓になる決意したことに何か影響を与えることになったのだろうか? ぜひ一度聴いてみたかったことである。中野とはよく呑み、よく話した。山、仕事、文学、女、学生運動、etc……。でもなぜか余り突っ込んだ部分は互いに避けていたような気がする。いつだったか、何故百姓になったのかと問う私に、「関根さん、丸山さん、小林、いつも土壇場で強いのは百姓の生まれだ」と笑ってはぐらかした中野、今だったらなんて答えてくれただろうか? いつも決断のはやかった中野。その決断を決して後悔することが無かった中野。伍町田に墓を買ってやっと地元に受け入れてもらえたと安堵した中野。百姓は心置きなくやり終えただろうか? たとえ道半ばだったとしても、自分が決断した百姓という道を後悔することなく伍町田の土になるのがいかにも中野らしいと思う。
私も60代も半ばになり、心臓病、脳梗塞などを患い、死を意識するようになった。こんな今だからこそ話したいこと、本音で話せることが山のようにある気がする。いつか中野のいる世界に行く時が来たら、ご無沙汰してごめんと一言詫びるから、積もった山のような話に付き合ってくれ。そう、お前さんの好きだった日本酒を手土産にして行くから。
合掌

写真:新人の頃、双子山山頂にて。左より深谷・中野・小林

※2011年3月7日、OBの中野陽一さんが逝去されました。謹んでご冥福をお祈りいたします。(わらじの仲間)