GW紀伊半島の沢旅
「台高・宮川堂倉谷」編

2011年4月29日〜30日
須藤功・遠藤徹・松倉淳
記:遠藤 徹

 烈風吹きすさぶ広い駐車場があまりにも寒くて、我々はテントを張って中でラーメンを作ろうとした。すると公園のレンジャーみたいな青年がすっ飛んできて「ここは幕営禁止だし火気厳禁です」と怒られてしまった。駐車場脇にある休憩所で朝飯を摂り身支度を整えて出発した。天気は上々、多くのハイカーや山ガールに紛れて大台ヶ原の日出ヶ岳山頂に立った。30分くらいだろうか、とても短時間で登れる百名山だ。山頂の展望台に立つとぐるりと紀伊半島の山々が見渡せる。名も知らない山と山の間から遠くの山々が連なっていた。松倉に「あんなところにハーフドームが見えるじゃないか」と指差す。松倉が「あっ。本当だ。ハーフドームがあんなところにある」。大峰の主峰釈迦ヶ岳はハーフドームに似ていた。案内の看板から山名同定を図るが、どれも宗教めいた純和風の山名ばかりだ。山頂にひしめく大勢の中から北へ向う堂倉尾根を下り始めるのは我々3人だけであった。約2時間で堂倉避難小屋に着く。時間は早いが夜行疲れを癒して今日はここまでとする。ほどなく町田からきたという若者2名が現れた。「堂倉谷ですか?」と向こうから訪ねてきた。この時期はどんな様子なのか問われたが、我々も初めてなので判らないと応えた。彼らは今日中に入谷するらしい。堂倉谷を遡行するらしいパーティを他に2組見たが、この後の邂逅はなかった。

4月30日

 3時に起床し5時前に避難小屋を後にした。約1時間で大杉谷に降り立つところに立派な堂倉滝がかかる。どうやら懸念していた水量はむしろ少ない感じに見えた。本流を渡るつり橋には立ち入り禁止の看板がある。これを乗り越えて下流に向うと次のつり橋の手前から立派な踏跡が右岸を巻き上がっている。小尾根上には朽ちたレールやワイヤーなどが見られる。
 堂倉滝の上に降り立つルンゼには怪しい残置ロープがあった。これを下り堂倉谷に降り立つと、いきなりナメと斜瀑が続く素晴らしい景観が待っていた。いつもの年ならばザラメ雪に板を滑らせている連休にあって、3人とも沢初めに体がぎこちない。トポにあった最初の泳ぎは敬遠し左岸を巻いた。続く30mの美瀑もついでに巻いた。その上にある大釜も泳ぎを余儀なくされるが、幸い水量が少なく右岸側壁に残置されているロープで振り子状にトラバースし小滝の左壁を登った。この上は驚くほどの巨岩がころがっている。20mの美斜瀑は左から巻き、中七つ釜に入る。狭いゴルジュは左岸に追い上げられ、ここも残置のトラロープでずり降りた。美しい5m斜瀑を過ぎると左岸よりアザミ沢が合わさる。ここまでが一般的な初日の行程らしい。
 いくつかの小滝を越えていくと奥七つ釜となるが技術的に困難な所はない。素晴らしい甌穴とナメが創り出す奇抜な景観に酔いしれる。その先で吸い込まれるような透明度の瀞を見つけたので一休みする。松倉が「この谷の水は不思議に綺麗だ。釜の脇にありがちな泡やあぶくが全く見られない」と言う。そう言えばその通りだ。人臭いがゴミや木屑が浮いていない。魚影も見えないがゴミも見られない。ナメを越えていくと堰堤が見える。我々は堰堤の手前から右岸の林道に這い上がり、そのまま林道を歩いた。やがて林道は堂倉谷に沿って続くものと、堂倉谷を横切り昨夜の避難小屋に続くものに分かれる。通常はここから遡行を再び始めるが、このあたり林道の敷設に伴なう土砂の影響かゴーロ歩きに終始しそうに見えたので割愛し林道をそのまま辿ることにした。林道にはいつの時代のものだろうか、朽ちた営林小屋らしき建物がまるで映画のセットのような佇まいで残されていた。
 地形図から判断し下降しやすい枝沢を下り、再び堂倉谷の二股を越えたゴーロあたりに降り立つ。ここからは上部連瀑帯と呼ばれており登攀性が求められるらしい。しばらくで右岸より多段滝が合わさり、小滝を越えると石楠花沢の出合となる。にわかに傾斜が強くなり幾つかの滝を越えると2段25mがかかる。松倉が果敢に挑み、中段の大岩の手前でピッチを切る。ラストに入った私がそのまま上部にロープを伸ばしたが大岩を乗り越えるところでは内面攀隊を強いられた。この上に続く3段35m下段は緩い傾斜で右岸を登る。上部は狭いゴルジュに直瀑が懸かっている。トポではここでアブミを使う記録も見たが、トップの松倉登攀隊長はバランスで左壁のバンドに上がり対岸にオポジションを取り無難に超えた。私は残置の捨て縄でゴボウする。結果的にロープを出したのはこの2箇所のみであった。
 やがて谷は開け素晴らしい源頭となる。下草もなく美林の続くスロープのなか、ゆったりとした流れに変わる。大きく沢が右に曲がるところで、右岸から稜線が近くなる場所があり、地形図から判断し「誰かあの上に道があるかどうか見てくれないか」と言うと、須藤さんが引き受けてくれた。もし道があったらここでガスを沸かしそうめんを茹でるので、上から大きく手を振ってくれと頼んで待った。読図は正解で須藤さんは大きく丸を描き、そうめんを茹で始めた。ところがちょうど茹で上がろうとする直前、空がゴロゴロと鳴り出す。大台ヶ原は落雷でも名高い。そそくさと釜揚げそうめんなる不思議な食感をかき込み稜線に上がった。全行程ヤブ漕ぎなし。詰めの急登もない。ここから一般道だからと高を括って歩いていたら道を外して右往左往する。やたらにテープ、目印が乱雑にあるので注意したい。無事に尾鷲辻にたどり着き立派な遊歩道を駐車場に向う。このあたり東の川の源流と思われる流れが広大で起伏のない頂稜部に幾筋もあって不思議な地形である。規制がなかったら焚き火でもしながら流れの傍らで泊まりたい雰囲気の場所がそこかしこにある。
 堂倉谷は関西の銘渓と詠われ岳人の百名谷にも選ばれただけあっていい渓であった。願わくば清流宮川の本流に当る大杉谷を真っ当に遡行して継続してみたい。中ほどにあるゴーロ地帯はそういう意味からも残念な存在だ。このあとは栂谷は松倉。立間戸谷は須動さんと記録の分担を決めたので後に譲るとして全行程の概略だけ報告します。

 遡行を終えたあと長い大台ヶ原ドライブウェイを169号に下り、さらに169号を南下した。北山村にあった「きなりの湯」で汗を流し、熊野市で割烹風の飲み屋で私だけ酒を飲んで食事をして、熊野灘に面した道の駅でごろ寝。夜は不審者に間違えられた須藤さんが犬に吠えられるハプニングがあった。5月1日は疲労が溜まっていたので休養日にしたい気持ちが天に通じたのか雨が降り、那智の滝を見物し、憧れの南紀勝浦温泉にある忘帰洞を訪ねた。新宮へ戻る途中あった大型スーパーで食材を買い付け、熊野川から高田川に入った奥でいい東屋に出会う。

 5月2日は雨もあがり南紀の秀峰、烏帽子山に突き上げる栂谷を遡行した。下山に通過した廃村「俵石」の往時を偲ばせる無数の石垣には驚く。高田にある白濁の雲取温泉で疲れを癒し、立間戸谷の出会いへ移動。キャンプを目論んだ熊野川の左岸にある立間戸谷の出会いはなんと伏流。仕方なく幕場を探して今宵もさすらう。この晩は熊野川の河原にテントを張って焚き火を愉しんだ。昔なつかしカヤックの旅を思い出す。
 5月3日、私はヤル気満々で3時に起きたのだがあとの2人が続かない。私も前日の栂谷でナメ滝を滑落し、したたかに打った膝も痛かったので再びシュラフへ。起きてから今日は立間戸谷の中間にある幕場適地までと軟弱で柔軟な計画変更となり、急遽、午前中は湯の峰温泉と熊野神社へ観光に出かけた。楽しみにしていた湯の峰温泉つぼ湯はなんと2時間待ち。残念だが時間がなく共同湯で我慢する。熊野神社はなぜか松倉が当初より拘っていた。彼は阿佐ヶ谷の神社で習得したと、作法に従い手水舎で手を洗う。へんな奴だ。午後から立間戸谷に入り一般道に沿って2時間ほどで幕場適地に着く。今回の沢旅に於ける最初で最後の正当な沢の泊り場であった。須藤さんは釣りに行き、私は、焚き火を起して飲み始めた。
 5月4日は立間戸谷を遡行し展望の優れた子ノ泊山(ねのとまりやま)に登った。下山後、再び雲取温泉に寄って汗を流し、熊野市の北にある新鹿湾を望む民宿で打ち上げとした。私の当初の計画にあった北山川観光筏下りは帰りの渋滞を考慮し涙を飲んでキャンセルしたけれど、1週間の充実した沢旅を楽しむことができた。須藤リーダー、松倉登攀隊長に感謝したい。今回の計画で買い込んだ地図代は相当な額になるが、須藤さんからは「私が買ってコピーしてあげたのだから夏になったらまた南紀に付き合ってくれなきゃ困る」と脅迫されている。課題は交通手段であろう。

写真は上から、堂倉谷・シャクナゲ谷出合/堂倉谷2段25m滝/熊野神社本宮/熊野川のほとりでキャンプ