GW紀伊半島の沢旅
「南紀・熊野川栂谷」編

2011年5月2日
須藤功・遠藤徹・松倉淳
記:松倉 淳

 台高の大杉川堂倉谷を終えた我々は南下して南紀に向かった。百名山に突き上げる百名谷の1本を遡行したことて徹さんはご満悦であった。大台ヶ原は標高がそこそこ高く、芽吹きもまだこれからで晩秋のような雰囲気であり、付近の山の日陰にところどころ雪が残っているくらいなので、サミーサミーの連発であった。大台ヶ原の岩質は非常に滑りやすくて手を焼いたが、天候はまずまずで、ミネラルウォーターを満たしたような深い釜と、山腹を飾る花、足元を彩る白い山桜の花弁、というなんとも品のいい谷なのであった。上部の連瀑帯のトップをこなせたことで身体も動くようになってきた。
熊野市で新鮮な魚を味わった後、適当な場所を探して寝る。翌朝七里美浜の長く白い海岸に出て朝飯を食べると、今日は気圧配置が悪く、南からどんどん雲が北上して大台ヶ原の辺りにぶつかっている。大台ヶ原のビジターセンターで知ったのだが、大台ヶ原が屋久島より降水量が多いというのも納得。
 やがて雨が降り出した。雨の中、今日は那智ノ滝と勝浦の超有名温泉を巡った。海、山、河、温泉、食い物……、南紀はそういったものにことかかない場所だということを思い知った。新宮市から雄大な熊野川を車で遡る。川面も広いが河原も広くゴミひとつ落ちていない美しい河である。河口の新宮市からなんと20kmも遡らないと対岸に渡る橋がない。徹さんは大分前にカヌーで下った思い出があるそうだ。熊野川の左岸(三重県側)はすぐ山に接し、立間戸谷のある子ノ泊山があるのだが、両側ともあちこちに大きな滝が車道から見られ、そして遡行対象になっている。その右岸(和歌山県側)の支流高田川に入るとカルチャーショックだが自然プールというのがあって、川を石でせき止めて広く浅い川面が作られている。脱衣所やシャワーまで用意されているのであった。夏に遊びに来たい場所だ。ここに東屋があった。
 栂谷(とがだに)はその高田川の支流で、自然プールの公園からさらに上流へ廃村の俵石集落へ向かって、栂谷にかかる橋(栂ノ平橋)より入渓する。入渓点での印象はぱっとしない。しかし奥へ入って驚くことになる。だいぶ人が入った跡のある谷なのだが、すぐに立派なナメが現れる。中華鍋の底みたいなナメナメナメ……と思ったら、思わず笑い出したくなるような、首を傾げたくなるような、巨大な岩が鍋の底に鎮座しているのであった。巨大な落石だったのだろうか?
 さらに進むと、どーしたらこんな地形ができるんだよ、と言いたくなるような、巨大な花崗岩の側壁が出現するのであった(ヤケベ岩)。何万年かかったかかわからないが、流れがほとんど位置を変えず、岩を削り続けたに違いない。そこに10mの斜瀑があり、右から巻き降りるとすばらしいナメ床が続くのであった。
 あとはナメ、釜、大岩がひたすら続く。植林も多く、仕事道や炭焼き釜の跡も残っている。どこまでも人が入った跡があるのだが、ここでは自然の力のほうが圧倒的に勝っているようだ。若葉を貫いてきた光がナメ床と水をグリーンに色づかせている。飽きない遡行の後、沢の傾斜が立ち上がって水が少なくなる。急傾斜の烏帽子山直下を詰め、やや右にルートを取ると登山道に出てすぐにエボシ岩という岩塔があり、よじ登って遊んだ。
 山頂にザックを下ろすと「おもしれー山」とつい言葉が出た。烏帽子山山頂から海岸、つまり新宮市まで直線距離で5kmくらいしかない場所に、こんな原始の香りがする山があるとは。谷の遡行は4時間ちょっとであった。この山は昨日見に行った那智ノ滝を落とす谷も擁している。
 下山にかかると俵石という集落の廃村跡を通過する。ここも興味が尽きない。小さな石で石垣がたくさん作られ、その数から考えたら数十戸はあったか? 車道は人が住んでいた頃から通じていなかったらしい。電気も通っていたらしい。ともかくここに人が大勢住んでいた。今は石積みの後に杉が植えられているが、もちろん廃村になってから植えられたものだろう。江戸時代の新田開発の集落だったとか、那智の方面へここから道が通じていたと聞いた。
 集落跡を通過すると、ほどなく車道に出て終わった。今日は夏のような陽気だった。雲取温泉で汗を流し、休憩室の新聞を広げると、昨日は低気圧の通過で東北地方ではかなりの風が吹いたらしく、北アでは遭難が多発したそうだ。GWの後半はぐずつきそうだったが、ここ南紀は幸いそれほどでもなかった。

 南紀の計画と聞いて前々から気になっていた場所だっただけにすぐ計画に乗らせてもらいました。なかなか行きづらい場所だけにいろいろ面倒を引き受けてもらった徹さんと須藤さんに感謝します。

写真は上から、このナメを栂ノ平滝と言う/ヤケベ岩と斜瀑/俵石集落跡/ナメに転がる巨岩